金魚迷惑

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~外側からしか見ることのできない自分を閉じ込めている檻~

人間は、これこそが自分自身だと思っているものを守ろうとして壁をめぐらす。
そしてある日、その壁の内側に閉じ込められ、出られなくなってしまうのだ。

ロバート・フィッシャー『ナイト』より
Men are not prisoners of fate, but only prisoners of their own minds.
ーFranklin D. Roosevelt
The significant problems we face cannot be solved at the same level of thinking
we were at when we created them.
-Albert Einstein


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殺伐とした心の風景
ごく個人的な話になりますが…(もしかしたら
ある種のカミングアウトともいえるでしょうか?^^;)

ワタシには喜ぶという実感があまりありません。

一般的な楽しみや、喜び、それ相応の状況にある時には
まるで演じているように、周囲に喜びを表現しているような
気がしています。
明らかに不安や居心地の悪さを覚えたりもします。

自分を喜ばせるということもできず、ごく近い友人に
「何をすると自分が喜ぶ?どうしたら嬉しいもんなの?」と
質問しては、困惑させたりもしましたっけ。
自分なりに考え、たどり着いた答えが
「それを感じる感覚器が(発達して)ない?のだろう」
ということ。

喜びを表明することが感謝なのだとしたら
感謝の気持ちも持ち合わせていないのかも知れない…
などと、ずいぶんと悩みましたっけ。

最近、子は親を救うために「心の病」になるという本の中に
これまで以上に腑に落ちた説明を見つけました。

「普通の」子は、欲求を満たして、自分の存在を確認する。
虐待を受けた子は、欲求を我慢して、自分の存在を確認する。
そして、逆転した存在感は、異なる心理システムを作り出す。

我慢だけが「いる」ことの「手ごたえ」であれば、そこに
「生きる喜び」は生まれない。喜びは自分の欲求を認めてもらい、
満足させてもらって初めて感じるものだから。

―以上、前述の書籍より引用。

虐待についての定義の如何はともかく、いわゆる「普通の」人々は
欲求を満たして、自分という存在(自らのアイデンティティ)を確認
するという説明に衝撃を受けました。

ワタシの存在の「手ごたえ」からは、「生きる喜び」は生まれない!!!
どうりて…

オオゲサな言い方ですが、「生きる喜び」(の実感)を求めては断念
それでもまた乞い求めては断念するという繰り返しでした。

喜びや感謝のない心の風景は殺伐としています。

そこに喜びの果樹園を築くためには、受け容れ難い「普通の」人々の
あり方を、それを映し出してくれる家族や周囲の人々のあり方を、
それでも何度も受け容れ、気づき、自分の心のシステム
変化させていく以外に方法はないのだろうと思います。

これが自分に課せられたライフワークといえるのかも知れません。

まるで心情吐露のような文章を読んでくださってありがとう^^。

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by dryangle | 2010-07-27 08:33 | 親子の関係 | Comments(8)
Commented by ブルン at 2010-07-27 23:41 x
精神的な親離れが早く、基本的に自分がしたいと思ったことを、我慢しないで実行してきた野性児の私にとって、「欲求を我慢すること」が身についている人は、きちんと躾けされた育ちの良い人という印象です。(深窓の令嬢みたいな(^^)) dryangleさん、喜びを感じるために欲求を満足させようにも、その欲求自体がないということなのでしょうか? 欲求はあるけど、「我慢する」ことが楽しいとか?時々思うのです。我慢するの楽しんでいるように見える人がいるなって。ホントに楽しいのだったら、それでもいいのですが、そうじゃないのですよね。それにしても、楽しくないのだったら、何故そうしてるの?というのが私の素朴な疑問です。
Commented by dryangle at 2010-07-28 08:15
欲求といえば、基本の生理的な欲求・安全を求める欲求から、愛されたい、承認されたいという欲求・金銭や物、地位を手に入れたい欲求・自己実現の欲求までと幅広いですよね。
あくまで個人的な感想なのですが、基本の生理的な欲求や安全、そして親の承認を得るという欲求が満たされて、ようやくブルンさんのおっしゃる「自分がしたいと思ったことを、我慢しないで実行」という段階へと移行ができるのではないか?と思います。そして、それを満たすことで「自分の」喜びや楽しみを得ることができるわけですよね。
ワタシ個人はブルンさんのおっしゃるような欲求が「ない」というよりも、その段階まで「至らないまま」というような気がしています。安全や(親からの)承認を得た実感(自信?)のないままといいましょうか…。
その不安の強さによっては、様々な心の不調(鬱や不安・パニック障害、依存症、強迫神経症、パーソナリティ障害、それらが原因のひきこもり、感情爆発など)につながるのが想像できるかと思います。
(以下に続きます)
Commented by dryangle at 2010-07-28 08:36
>楽しくないのだったら、何故そうしてるの?
そうすることが、「自分を守る手段として」刷りこまれた、躾けられたからだというところでしょうか。
クセと同様にほぼ無意識のパターンとなっており、それに背くと不快・不安な感情(罪悪感・自責感・恐れなど)がわき起こります。その苦痛よりもつい「楽しまない・我慢する」という慣れた感情を選択してしまうのです。
有名なマズローの欲求の階層説に照らすと、自我や自己実現の欲求の前段階の「帰属欲求」までの間でつまづいてしまっていると考えればご理解いただきやすいでしょうか?
Commented by ブルン at 2010-07-28 22:39 x
何が「普通」かなんてわからないですが、dryangleさんのおっしゃるようなパターンで躾けられている方って、日本女性に多いような気もします。日本社会ではウケがいいですもの。自分の息子の嫁には、自由に行動する女性より我慢することが身についてる女性がいいなというのが母親の本音だったりしないでしょうか。。。本人の幸せや楽しみなんて二の次で、自分(母親または姑)にとって、都合がいいからなんですよね。
あっでももしかしたら、その自分もそういう風に躾けられてきたからかもしれませんね。問題が次の世代に受け継がれているだけかも。私の場合、受け継ぎ拒否をしてしまったので、エライことになってしまいましたが。

ところで唐突ですが、dryangleさんは幸せですか? 私は「喜ぶ」という感情がなくても「幸せ」を感じることができさえすればいいような気もします。
Commented by dryangle at 2010-07-29 07:40
おっしゃるような文化的な背景はあるかと思います。
ただ「我慢を受け容れる」ことで親や集団への帰属欲求が満たされる場合や、それが「自分を守る手段」として成立し続ける場合には、「心理的な」問題としては表面化しないようにも思います。
現代のように価値観が多様化し、周囲の反応のパターンが異なったり、「縛りが緩む」というようなアンチテーゼに直面してこそ苦悩するのかも知れません。世代連鎖への新風という好機だともいえそうですが…。

ワタシが「幸せ」かどうかですか?
うーん^^;難問ですね。これまでや今の状況を「頭で評価」してしまうとトータルでは「幸せ」だといえそうです。それを現時点に「感じる」ことだとすると、もちろん時々で変化しています。穏やかな満たされ感も含めてそれが「喜ぶ」という感情のようにも思いますが、意外な「喜び」を得て初めて自分が「それを求めていた」ことに気がつく、といった経験を繰り返しています。
Commented by ブルン at 2010-07-30 21:58 x
そういうパターンがあることを知って勉強になりました。私は単純なことだと思っていた「喜びを感じること」のために、練習が必要な人もいるのですね。おかげで、ちょっと謎も解けました。なぜ、自分の言いたいことをはっきり言わないのか?、自分のやりたいことをしないのか? という思える人たちも、もしかしたら、こういうパターンで、一歩が踏み出せないのかもしれないと・・・日本社会では、そういう人は「思いやりのある人、やさしい人」と評価されるので、問題は表面化せず、それで良しとなってしまうのかもしれませんね。
Commented by ユウ at 2010-08-02 23:00 x
やっとこちらに伺えました!

親を救うために病気になる。
衝撃的でした、私の義理妹がまさにそれだと思います、我慢に我慢をかさねて訴えるためにこころの病になったのかもと思っていましたが、違ったのですね。
なんて切ない。
もっと、詳しくしりたいです。
Commented by dryangle at 2010-08-05 13:48
ユウさん、ようこそ!つくづく心は「関係性」に縁取られる存在なのだと思わされます。そうと知ってみると、子(ある人)が親(対象)に埋もれている問題を「鏡となって映し出す」という有様を、あちらこちらに見つけることができそうですね。対象となる人の「内なる問題」に目を向けることが、双方にとって問題から抜け出すための大きな鍵になるような気がします。
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