ごあいさつ
自分を生きることに
疲れてしまったら… 心のプログラムのバグを ともに探してみましょう。 ●こちらのブログでは… 特定の療法や理論,思想にこだわらず、心理学・精神医学・カウンセリングなど、多分野から心のメンテナンスに役立つ情報を私的な想いとともに発信しています。 ↓さらにくわしく dryangleとblog金魚迷惑について ↓アメブロ姉妹ブログ やわらかこころ塾 作業用ページ(非公開) イラスト by ふわふわ。り ブログパーツ
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心の不調や問題には、いわゆる「生きづらさ」から精神疾患までのスペクトラムがあります。
こちらでは、特定の療法や理論,思想にこだわらず、心理学・精神医学・カウンセリングなど 多分野から心の癒しとメンテナンスに役立つ情報を集めています。 初めていらした方へ…dryangleとブログ金魚迷惑について ある人が意識の対象に持つ主観的な認識を観念と呼びます。 一般的には、ある物事に対して持つその人の考えといえます。 中でもそれによって不安や恐れ、焦りなどの不快な感情を呼び起こし その都度頭に浮かんでは、打ち消そうとしてもどうにもできずに ―抵抗感があり― 自分を苦しめる考えやイメージを強迫観念と いいます。 ・有意義という強迫観念 たとえば、何もしない時間・何もしない人を許せますか? 現代社会では、成し得たことやその意味に価値がおかれています。 また効率優先のため、何もしない時間は無駄に浪費された時間と 見なされがちです。 もちろん有意義であることの価値は言うまでもありませんが 無為に過ごすことに罪悪感や焦燥感を抱き、無為に過ごす (自分or 他)人に対して許せないような感情がわくというのは それがすでに強迫観念となってしまっているといえそうです。 これが鬱をもひき起こすオーバーワークの精神的土壌に なっていると指摘する精神科医もいます。 有意義であるという絶対的な価値の基盤にあって 対象的な動機の違いが成り行きを反転させてしまう ということにもなりかねません。 自発(積極的意志)⇒やる気・(自分or 他人が)そうしなくてもまぁいい によるものか? 強迫観念⇒べき/ねば感・(自分or 他人が)そうしなければ不安/不快 によるものか? 探してみると、アレコレわんさかと出てくる強迫観念。 時には、気持ちのあり方を検証してみることが大切ではないでしょうか。 …次回は、自分の価値や競争について、この強迫観念という切り口から 考えてみたいと思います^^ コメントを承認制にいたしました。送信してもすぐに反映されません。 よろしくご理解ください。 非公開コメントも大歓迎です!(下の Commentsをクリック)
by dryangle
| 2011-04-07 09:36
| ココロのカラクリ
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Comments(4)
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ハル@jp
at 2011-04-08 10:29
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お久しぶりです。「今年は花粉が多い」という話題がニュースになっている時、「そういえば、最近、日本は大きな事件が無くて平和だわ。」と思ったのもつかの間、
千年に一度と言われる規模の大震災。 あれ以来、体か頭の一部分がずっと眩暈を起こしていている感覚です。その状態に慣れてしまって、その上で日常生活をせざるを得ず・・・という状態です。 ところで、今回の強迫観念というテーマ。 私の周りにも「より頑張った(勉強した・働いた)人(自分)が偉い」と思っている人がいます。 私は内心「でも、全部自分の為に、でしょう?」と思ってしまいます。 今朝も、「誰それに・・してあげたのに、挨拶がない。」という怒りの言葉を聞き、「はぁ。」と違和感を感じたところです。 「オーバーワークの精神的土壌」に、自分の種を蒔いて育てている人、少なくない気がします。 私はface book のお誘いにも、強迫観念が感じられるのです。何か、必要以上に、「駆り立てられて」いないですかね。
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dryangle at 2011-04-11 08:18
ハルさん、「地震酔い」という言葉を初めて知りました。さぞ不快でしょうね^^;
お身内やお知り合いの方はご無事でしたでしょうか?…心よりお見舞い申し上げます。 >自分の種を蒔いて育てている人、少なくない気がします。 本当ですね。「不快の種」ともいえるでしょうか、(たとえ常識とされていても) すべては自分の側のコダワリなのですよね。 おっしゃるように駆り立てられるような、「どちらでもかまわない」というユルさの感じられないモノには、この種の観念があるといえます。それが社会秩序を保っているという 側面も否定できませんが、子細にまで及ぶと窮屈で心が疲弊してしまいます。
動機が自発か強迫観念か、私の場合、どちらにも当てはまる場合が多いような気がします。
例えば、今回の震災では(私は東京在住ですが)被災地の人たちのことを考えて落ち込んで何もしたくない気分になったとき、 「非常時なんだからしょうがないと言い訳して、何もしたくなくなるような自分が許せない。」 と、強迫観念を感じるように自分に仕向けて、とにかく何か作業をするようにする。これって自発的ですよね。最初は強迫観念のようなもので動いているのですが、途中から、自発的なものに変化していくような感じです。その違いは、同じくぐうたら何もしないわが子が許せるかどうかでしょうか。自分がやっていることに本当に夢中になっている場合は、人の様子がどうであろうとあまり気になりませんから。
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dryangle at 2011-04-12 09:05
ブルンさん、こんにちは^^。書きながらも悩んだのですが、日本語の「自発」には
1.外からの働きかけによらず自然に行われること・自ら進んで行うこと。2.積極的 意志ではなく自然にひとりでに行われること。3.たんに自分から進んですること。 …という表面的には相反するような語義があり、さまざまな語感を持つようです。 あえて「積極的意志」と添えてみましたが、主観的な表現でいえば、「ヤル気」というか「ぜひしたい!」といった『歓び』の伴った能動性といえるでしょうか。 もとの動機が強迫観念でも、結果としてそれなりの報酬(ポジティヴな感情)を得る経験を積んでいれば、途中から自発的なものに変化していくということも考えられそうですね。 >自分がやっていることに本当に夢中になっている場合は、人の様子がどうであろうと あまり気になりませんから。 …同感です。他者のあり方(アンチテーゼ)がまったく気にならない(許せる)時、自分のあり方もまた純粋な自発性によるものだといえるのかもしれませんね。
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