金魚迷惑

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~外側からしか見ることのできない自分を閉じ込めている檻~

人間は、これこそが自分自身だと思っているものを守ろうとして壁をめぐらす。
そしてある日、その壁の内側に閉じ込められ、出られなくなってしまうのだ。

ロバート・フィッシャー『ナイト』より
Men are not prisoners of fate, but only prisoners of their own minds.
ーFranklin D. Roosevelt


気づいてみる。意識してみる。何かが変わり始める。
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"自分"に疲れていません?
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カテゴリ:周囲の人との関係( 44 )

感じ方の違い~心の鏡が映し出すもの~
心の不調や問題には、いわゆる「生きづらさ」から精神疾患までのスペクトラムがあります。
こちらでは、特定の療法や理論,思想にこだわらず、心理学・精神医学・カウンセリングなど
多分野から
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ある物事に対して、それぞれの人が違う感じ方・受けとめ方をします。
時にその違いの大きさに驚かされることがありますね。

これを説明するために、哲学者は現象学的なアプローチを試みてきましたが
時代を経て、臨床に関わってきた心理学者によって少しはわかりやすい
説明がなされるようになったように思います。

カウンセリングの祖とも呼ばれるロジャースの自己理論

●個人はすべて自分がその中心にあり、絶えず変化する
 経験の世界 ="私的世界"に存在する。

という仮定を基本に構築されていきました。

それは、ある人が経験している世界は客観的な現実ではなく
自分というフィルターを通した世界であるということです。

ワタシはそれをよく心のフィルターという言葉を用いて
説明させていただいています。

この心のフィルターは、経験と自己概念(自分という存在のイメージ)
によって形成されてされます。

この自己概念も経験によって築かれるものですが、その過程で
脅威や不安にさらされる体験に臨んで、心身を守るための防衛として
否認や歪曲という反応が起きるとされています。
反対に、重要な他者(最初は親など、のちには自分自身)から
受け入れられた価値を価値条件として選択するようになるのです。

このように発達した能力がつまり心のフィルターといえるかと思います。

つまり感じ方・受けとめ方は、その人の瞬間瞬間の
自分という存在そのもの

多様性や個性にあふれていて、なんら不思議はありませんね。

とはいえ、この心のフィルターを通して映し出される価値が異なる時
相互に対立を生むことがままあります。

そして、客観的価値・優位性を競って攻撃をし合うようになると
当然争いになります。

また自分の感じ方が、自分を疲れさせている人がいます。
これが過ぎると、心は消耗し疲れ果て、無力になってしまいます。

自分の心が、物事をどんな像に映し出しているのかは
自分自身にしかわかりません

それなのに自分の感じ方(心のフィルターの傾向性)すら、それを
意識したり理解しようとする人は案外少ないのではないでしょうか?

また自分や他の人を責めたり追い詰めてしまう感じ方(の傾向性)
自分自身のあり方や周囲との関係を悪い方向へと導いていきます。

自分の効力の及ぶ(変えることのできる)のは、自分の感じ方だけで
他の人の感じ方や、物事の状況、客観的な価値を直接変えることは
困難至極(不可能?)。

そこで自分の感じ方へと理解の目を向けてみることで
癒しや気づきを得たり、自分なりの価値を見出し、築いていく
チカラがわいてくるように思います。

そして互いがそれぞれの"感じ方の違い"を、理解のスタンス
受けとめる努力をすることによって
対立や争いを意義のあるコミュニケーションへと換えていくことが
できるのではないでしょうか?
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by dryangle | 2008-03-19 08:52 | 周囲の人との関係 | Comments(0)
文字通りの『神経過敏』?
私達は、ふだん誰かからの言葉や反応を受けとる時
自分の心のフィルターを通してその意味を解釈している
ことを、なかなか意識できません。

一方の何気ないコトバや、さらには相手を気使うつもりの
態度までも他方の気に障って、険悪や陰鬱ムードを生んでしまう
ことがままありますよね。

この逆鱗
個々人や状況によってずい分とパターンが異なるようです。

批判が多く、攻撃的な解釈や反応をする人がいます。
自分の優位を誇示して強がろうとする人がいます。
正しさにこだわって自分を肯定しようとする人がいます。
あきらめて自分を貶めたり犠牲にしようとする人がいます。
交流を絶つことで、心を閉ざしてしまう人がいます。

過去に傷を受けた経験から、相手からのアプローチを
つい攻撃と受けとめ、防御の反応をしてしまう。
これは、自分の心を守ろうとするために発達した
パターンだといえそうです。

これが高じると、本人も心(&身)のエネルギーを消耗しますし
周囲との関係が負の連鎖へと陥ってしまいますよね。

そういった心のフィルターの罠に惑わされないためにも
自分(相手)のパターンの傾向性を知ろうとしてみませんか?

そのためのコツとして、自分の側の気持ちが満たされるのみではなく
双方の気持ちを満たすことを、コミュニケーションの目的として
意識してみてはいかがでしょうか?
ソコから脱線しそうになった時には、うまくやり取りを終了させたほうが
トラブルや険悪・陰鬱ムードを招かなくて済むかも知れません。

また自分の側の態度や反応の仕方を工夫することによって
双方の精神衛生に効を奏すことにもなりそうです。

ウツなどの心の症状を心のアレルギー反応という
言葉で例えることが広まってきました。

深刻な場合には、生きることそのものがアレルゲンとさえ
なり得るのではないでしょうか?

じっくりと、体()質の改善に取り組んでいくことが
大切なのではないかと思うのです。
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by dryangle | 2008-02-01 15:17 | 周囲の人との関係 | Comments(0)
自分の「エゴ」に気づいていますか?
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一般的にエゴ利己主義(エゴイズム)の意味に直結しがちですが
哲学や精神分析学では、意識の中心である自我を指す言葉です。

今この瞬間、考えや想いをめぐらしている意識自体が自我なのですから
もちろん熟知しているように思いがちですが、実際のところこれまでの経験で
培った観念や感覚によって自動制御されているのではないでしょうか?

またその自動制御を外してコントロールすることの難しさを認識して
いる人は案外少ないのかも知れません。

この自我は、その人の人格そのものともいえそうですが
他の人のそれと接する時に、さまざまなパターンを生み出します。

この自我は、その人自身であるための存在テリトリーです。
まず、生まれたばかりの赤ちゃんは(母)親と人格(存在テリトリー)を
共有していると考えられています。
自己の人格を築く発達の段階で、さまざまな葛藤(反抗期など)を経ながら
親の人格との分離をはかって独立していくものなのでしょうね。

この親(周囲の大人)の影響力が強すぎると、その後の子供の
人格の独立運動が挫折してしまうこともあります。
これによって自己の存在テリトリー(自己存在の意義やその感覚)を
得られない、もしくは失うことが、生きることへの無気力を生み出す
最大の原因のように感じます。

一方で、エゴは言葉を換えれば、自分の心というとらわれ
ということもできそうです。

自分の強い想いが、相手の存在テリトリーを脅かしてしまう。
愛情と信じて(その美名のもとに)、そのような過ちを犯してしまう
ことがままあるのではないでしょうか?

私なりの、このエゴと愛情との違いに気づくシンプルな方法があります。

その方法はそれは誰の気持ちを満足させるためのものなのか?
つねに自問することです。

その度に、多くが自分の側のエゴを…つまり不安や不満・期待を
満足させようとしていることなのだと気づかされています。

自分のエゴではなく、純粋に相手の気持ちを満たそうと考えると
気持ちの負担喜びへと変わります。

表面は同じに見えても与えること・受けとること
押しつけること・奪うこと違いは結果にでるのです。
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by dryangle | 2007-12-10 13:56 | 周囲の人との関係 | Comments(0)
ヤマアラシになっていませんか?
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ヤマアラシのジレンマという言葉をご存知ですか?

寒空にいる2匹のヤマアラシがお互いに身を寄せ合って
暖め合いたいけれど、互いの針が刺さるので近づけないという
ドイツの哲学者ショーペンハウアーの寓話から生まれた

自己の自立相手との一体感という
2つの欲求によるジレンマを比喩した言葉です。

心を突き刺すような攻撃の言葉を投げつけてしまう。
自分の不満な点を執拗に責めてしまう。
相手のあり方が気が障り、挑戦的に対抗してしまう。

またはそうされてしまう。そんな経験はありませんか?

攻撃には、その人なりに追い詰められてしまった
理由が存在するように思います。
これまでの人間関係や経験から学んだ対応のパターンだと
考えてみてくださいね。

心理学の分野に対抗依存という概念があるのですが
これは相手から孤立することで自分の心を守ろうとする
心の働きです。

自分の心を守るために、相手と感情的な交流をすることへの
欲求を絶ち、親密な関係からひきこもり、時に相手を責めたり、怒ったり
傷つけるという挑発的な言動へと傾いてしまうことだと説明されています。

まったく個人的ですが、ひきこもり状態の人をアルマジロ症候群、
攻撃状態の人をヤマアラシ症候群と名づけて呼んでいます。

相手の攻撃によってこれ以上自分の心が傷つかないための
対抗手段のような気がしてなりません。

うっかりすると、周囲の人間関係で、さらには家庭の中で、この相互攻撃
繰り返したり、互いに心の交流を絶つという悲劇が起こります。
相手もまた自分と同じく怖れを抱え、弱い自分を隠し、守るために攻撃
(または心を閉ざして)しているのだという構造に気づき、自分の側から変える
という転換点を選ばない限り、たいていの関係は悪い状態で停滞し
いつかは破綻へと向かいます。

そんな構造に気がついたら、自分が相手に求めるもの、期待する姿を
(やさしくして欲しい、受けとめて欲しい、理解して欲しいなどでしょうか)
ぜひ自分から差し出すようにしてみてください。

え?どうしてこっちが?本来ムコウが~すべきじゃない?だってムコウが!
…etc

その難しさに気づく時、相手側の気持ち、そして自分自身の同じような
心のあり方を理解する糸口が見つかるように思います。

ヤマアラシ・アルマジロの武装解除

それらが相手との関係を改善するキーワードなのではないでしょうか?

余談ですが、アルマジロという名前はスペイン語で
武装したものを意味する armado に由来するそうです。
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by dryangle | 2007-11-13 12:55 | 周囲の人との関係 | Comments(0)
愛と犠牲(2)
(前回からの続きです)

人の心にダイレクトに作用するものは、表面の行為の種類ではなく
その心のあり方なのではないでしょうか?

は相手の幸福を願い、相手を癒そうと努めること。
そのためのコミットメントは本人は苦痛を伴いません。
むしろ与えることによって喜びや満足というエネルギーを還元します。

ところが、愛を伴わない犠牲は明らかに抵抗や苦痛を伴います。
意に反していたり、心に余裕のないままに差し出し・持っていかれる痛みです
結果として、こちら側が得るものへの思惑が外れると憎しみをも生み出します。

相手へと差し出す行為の目に見える部分が同じであっても
その関係の成り行きは全く違ったものになっていくのです。


犠牲によって支えられた関係は、やがて必ずなんらかの歪みが起こり
破綻へと向かうものではないでしょうか?

前述の話であれば、木の幸・不幸も、さらにはちびっこのそれも
ストーリーの結末は、木の真意によって変わってしまうように思うのです。

あなたと周囲の人との関係は
愛に支えられていますか?それとも犠牲に支えられていますか?

*便宜上、という言葉を多く使わせていただいていますが
慈愛charityといった意味合いを意図しています。
また犠牲については、我慢という言葉に置き換えてみても
いいかも知れませんね。
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by dryangle | 2007-08-10 03:32 | 周囲の人との関係 | Comments(0)
愛と犠牲(1)
米国の絵本作家シェル・シルヴァスタイン(Shel Silverstein)の 
おおきな木(The Giving Tree)という話をご存知ですか?

一本のりんごの木は、かわいいちびっこと仲良しでした。
ちびっこは木と遊び、木が大好きで、だから木もとてもうれしかったのです。
時は流れ、ちびっこは大きくなり、いつしか木に会いに来なくなりました。
ある日、成長した彼が木のところへやってきます。
木は昔のように遊んでおいきと言いますが、彼は言います。

かいものが してみたい。だから おかねが ほしいんだ。
おこづかいを くれるかい?


木は困りましたが、りんごの実をすべて与えます。
大人になった彼は家を欲しがり、木はその枝を与えます。
やがて年老いた彼は船を欲しがり、木はついにその幹を与え
切り株になってしまうのです。


木は、心から喜んですべてを彼に与えたのでしょうか?

このような問いかけに、日米の子供の感想に差異があった
という記事をどこかで読んだ記憶があります。

アメリカの子供達の多くが、その行為を

木の本望だった

と答えたのに対して、日本の子供達には

不本意ながら、彼のために仕方なく応じた

という感想が多かったらしいのです。
(出典を思い出せません。すみません^^;)

もちろん、どちらかの解釈が正答というものではありません。
そう感じた当人にとって、感じるそのままが真実なのではないでしょうか。

木は本当に幸せだったのでしょうか?
木が彼にしてあげたことは、彼のためになったのでしょうか?


ところが、この問いかけには

それが木の本望であったか、不本意な行為であったかによって
結果が反転する


とワタシは考えるのです…

(続きは次回に)
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by dryangle | 2007-08-10 03:15 | 周囲の人との関係 | Comments(7)
読み逃げ禁止!?の心の奥
今日、こんな記事が目にとまりました。

ワタシも好んで興味ある話題のBLOGを読ませていただきますし
コメントを残すこともキライではないです(わりと交流好き^^)。
MIXIは、グループのメンバーが訪問履歴(足あと)を残していく
システムとはいえ、コメントなどのカキコミを残さないことが失礼
という発想には、正直大変驚きました。

してくれ症候群?の言葉がアタマをかすめましたが
その症状の代表的なものである恩着せ要求(脅迫?)パターン
(これも勝手な名づけなのですが^^;)なのではないでしょうか?

自分の(精神的)欲求を満たす責任を相手に負わせようとする
という自己愛性格の典型的な傾向性のように感じましたが
「失礼」という、さも道義に背くような言い分で自分側の
要求を正当化している(つまり脅迫している)に過ぎません。

誰もが自分の行動を自己決定する独立した人格を持つ
ということが、多分感覚的に理解できないのではないでしょうか?
独立した人格を持つ個人にナニカを求める場合には、本来
依頼・お願いパターン
になりそうなものです。

悲しいことに、このような人々は、まずそもそも自分自身が
自分の行動を自己決定する独立した人格を持つ
という自信や自覚を得ていないようにも思います。
それを育む機会や権利を奪われてきた結果なのかも知れません。

真の自己決定による行動は、それだけで自分を満足させるものです。
それが叶わないために、他の人に自分のしたことをアピールし
見返りを要求する
というような気持ちになるのではないでしょうか?

世間には、この心理が絡み合った社交辞令があふれていますよね。
この恩着せ・要求(脅迫?)パターンに、必死に応えようとして
精神を消耗している人もいます。

疲れる人間関係ですね~(〃´o`)=3

自分の心が望んでいることを正直に選択できる人は
他の人の選択にも寛容になれるでしょうし
その自分で自分の心を満たすことのできる人こそが
他の人の心を満たすための行為を自発的にできるのだと思います。

気持ちを要求し合うのではなく、満たし合う流れ
なんとか向かないものでしょうか?

あ、そこのアナタ。読み逃げしないでくださいね(^|0|^) オーイ!!
冗談ですって…(^∇^)

ご参考までに→神経症的要求
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by dryangle | 2007-03-22 14:20 | 周囲の人との関係 | Comments(2)
離れたほうがイイ関係?
心の不調や問題には、いわゆる「生きづらさ」から精神疾患までのスペクトラムがあります。
こちらでは、特定の療法や理論,思想にこだわらず、心理学・精神医学・カウンセリングなど
多分野から
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人と人との心の衝突の中で、関係を絶ちたくなることがありますね。
多くはパワーゲームに陥ってしまった関係なのだといえそうです。

先の「してくれ症候群」に関連する話ですが、してもらうために関係を
得たはずの相手から期待通りに得られないものを、要求し合う戦い
だといえなくはないでしょうか?

またそのパワーゲームでは、要求が叶わないことを自覚した側が
一方的にその関係を絶ちたくなることもしばしばあるようです。

今の時代、無理に関係に縛られる必要はないと思いますし
もちろん、一方からのパワーゲーム(というより制圧ですね^^;)によって
他方が精神的にひどく消耗している状況だとすれば
その人は、その関係から離れることが大切だと思います。

ところが、お互いに拮抗したパワーゲームである場合、この悲劇に気づき
その戦場から降りて、新たな関係のあり方を模索することでその関係が
好転・成長していくこともあるのではないでしょうか?

今の関係を離れてみても、また別の相手とパワーゲームの関係を繰り返し
人と心の衝突が絶えないのはなぜ?と嘆く人がいます。

誰かを制圧して思い通りに事を運んでも、人からの暖かい情だけは
得られることなく、さらにそのチカラをエスカレートさせる人がいます。

この心のパワーゲームには勝者はないと、つくづく思うのです。
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by dryangle | 2007-03-19 09:56 | 周囲の人との関係 | Comments(0)
「正しさ」へのこだわり
前回の話とも少々関連していますが…

正しさへのこだわりは、自分の心を守るためのパターンだといえます。

そのヒトの感覚による正しくないことは、過去からの体験により
責められること・罰せられること・償うことに自動的につながって
不愉快な感情や恐怖心、抵抗を呼び起こします。

ワタシにも覚えがありますが、そこから自己回復を図る、いわゆる
自(尊)意識を守るために自分を正当化したり、正しいか否か?
合理的かどうか?につい固執してしまったりするのです。

自分の側の正しくなさにより「責められる・攻撃される」のではないか
という恐れ・イヤな気持ち(実際に責められた経験によってすり込まれた
反応)に突き動かされているからだといえそうです。

これらは罪悪感や劣等感、被害意識(妄想)などと呼べる
不快反応

恐ろしいことに、この不快反応
喜び・楽しさ・幸福・安心・充実といった肯定的な感情を
感じさせなくしてしまいます。

もちろんこの不快反応はとりもなおさず
自己嫌悪や自分を攻撃する気持ちでもあるのです。

自責(自分への攻撃)と他責(相手への攻撃)は、性格による方向性の違いだと
思っていたのですが、「自責に耐えるキャパシティを超えると他責に転ずる」
と考えている専門家もいるようです。

周囲の人に責められることで、自分の中に作り上げられた
周囲の目(もしくは世間)が自分を責め、あふれたエネルギーが周囲を責める
(過度になると暴力に発展します)。それがまた誰か(別なヒトや子供たち)の
不快感情の根となり…
このスパイラル、多くの人が思い当たるのではないでしょうか?

これを癒すためのファクターとして、ちまたでは許しや感謝といった
概念が出回っていますが、この境地に至るにはそれぞれの関係の中にある
さまざまなカラクリに気づき、根気よく向き合う以外にありません。

まず自分を許すことができたら、このスパイラルを止める第一歩
(反省は大切ですが、叱責はベツモノです)。

そして他者の失敗や考え方/感じ方の違いを許してみる。

自分だって「悪くない」。
同じように相手だって「悪くない」。

問題は誰かが責められるべきものではなく協力して改善するもの

お互いに心からそう思えるようになった時に、関係が変わるように思います。

Jan. 25 '13 加筆修正
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by dryangle | 2007-01-18 17:38 | 周囲の人との関係 | Comments(2)
「主導権争い」の戦場を去る
誰かと対立した時に

「これって間違っていますか?」
「○×(誰ソレ)もそう言っています」
「○×(本やTV)でもそう言っていました」
「○×(対立する相手)に理解させたいのです」

このような言い方をするヒト、けっこういますね。

この場合、自分の側の正当性を訴えることで
「自分を守ろう」としているように感じます。
以前にも書かせていただいた「自己防衛」のカタチです。

とはいえ、それが客観(常識)的に「間違っていない」と確信できたところで
自分の「対抗意識を正当性によって満足させるだけ」に過ぎず
相手との関係を良くするための手段にはけっしてなり得ません。

どれだけ「他の人(権威)による裏づけ」を並べ立てても、それは
パワーゲーム(パワーストラテジー)の燃料にしかならないと
ワタシは思います。

パワーゲーム(パワーストラテジー)

双方が自分のやり方で「相手の非を責める」ことに終始する関係です。
この「正しさの争い」で勝ち負けが決定しても、この関係がお互いにとって
幸福なものにならないことは想像がつきますよね。

世間を見渡すと、親子・夫婦関係から民族・国際関係にいたるまで
この関係で満ちているように思われます。

ましてや、家族という本来信頼し合うための関係が、パワーゲームの敵として
存在してしまうとお互いの生きるエネルギーを消耗し合ってしまいますよね。

家庭がパワーゲームの戦場と化してしまったら、まさしくそれは悲劇なのだと思います。

まずは自分がパワーゲームをしている事実に気づき、その戦場を去る。
これが肝心なのではないでしょうか?

この「関係性」の根っこにあるものは、お互いの中にある、これまで育ってきた
環境や経験によって築かれた「観念」そのものだったりしますから、すぐさま
簡単に発想を転換させるというわけにはいかないのが現実です。

そのためにカウンセリングの手法の多くは、親子関係や過去の経験を想い起こし
その都度、埋没していたネガティヴな感情の処理をする作業を地道に行っていきます。

どちらかが深刻なパーソナリティ障害を病んでいるというのでなければ
(一体誰が判断するのかという問題はありますが…^^;)

自分が気づき、自覚し、物事と感情の関連を整理したり、素直に感情を認め
上手く処理をする(それを表現してみる、誰かに共感してもらう)ことによって
ずい分と変わってくるものだと思います。

その上で「主導権争い」を回避する反応のパターンを、お互いに培っていくこと
ができるでしょう。

きっと誰もが心の奥で、相手に対して「自分を理解して寛容に接してもらいたい」
と望んでいるのではないでしょうか?

まず自分から、相手を理解することに努め、相手に寛容に接することによってのみ
それが叶うような気がしてなりません。

誰かと「癒し合う関係」になれたなら、生きるエネルギーを充電できそうですよね。
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by dryangle | 2007-01-17 12:14 | 周囲の人との関係 | Comments(0)

Illustration by ふわふわ。り