金魚迷惑

★☆★不定期更新★☆★


~外側からしか見ることのできない自分を閉じ込めている檻~

人間は、これこそが自分自身だと思っているものを守ろうとして壁をめぐらす。
そしてある日、その壁の内側に閉じ込められ、出られなくなってしまうのだ。

ロバート・フィッシャー『ナイト』より
Men are not prisoners of fate, but only prisoners of their own minds.
ーFranklin D. Roosevelt
The significant problems we face cannot be solved at the same level of thinking
we were at when we created them.
-Albert Einstein


気づいてみる。意識してみる。何かが変わり始める。
流れをイイ方向へと転換するターニングポイントを一緒に探しませんか?
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"自分"に疲れていません?
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カテゴリ:ココロのカラクリ( 124 )

自己肯定感と自己愛を区別する。
心の不調や問題には、いわゆる「生きづらさ」から精神疾患までのスペクトラムがあります。
こちらでは、特定の療法や理論,思想にこだわらず、心理学・精神医学・カウンセリングなど
多分野から
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自尊、最近は自己肯定感や自己信頼感などと
訳されるSelf-esteem(セルフ-エスティーム)

これに対して自己愛のもとの言葉は
Narcissism(ナルシシズム)です。

日本語ではとくに紛らわしく、似通った言葉にも
思われがちなこの2つ。
じぶんなりにその区別の仕方を考えてみました。
(一般的な定義ではありません。あしからず^^;)

ざっくりと区別するキーワードとして思いつくのは
特別であるかどうか?

自己愛は度が過ぎると不健全な心の状態
なります。
それはとりもなおさず自意識過剰だから。

それは平たく説明すると、自分を他者との
コントラスト
によって際立たせる
こと。
つまり自分が「特別であるかどうか?」が
至上命題となるわけです。

この愛には、他との対比という絶対条件に依存
せざるを得ないという宿命的な脆弱性があります。
満たされる時には、その喜びや高揚感は格別ですが
それがままならない時には…

もう一方の自己肯定感根拠に依存しません

「自分という存在はかけがえのない大切な個性」だという
漠然としていても、なお揺らがない「自分の土台」なのです。

これを分けてしまうものは、生育環境(周囲からの条件づけ)に
他なりませんが、これが自分だけではなく他者の愛し方(認め方)
にまで大きな影響を及ぼす
こととなります。

条件付きでしか自分を愛せない人は
条件付きでしか他者や環境、物事を愛せない。

条件付きでしか他者や環境、物事を愛せない人は
条件付きでしか自分を愛せない。

よくある「アナタが愛してるのは、ワタシではなく
結局自分なのよっ!」というキメ台詞の本質
「アナタが愛してるのは、ワタシではなく
結局アナタの条件(に叶うワタシ)なのよっ!」

このあり方は、自分はもとより愛する誰かの心を
苦しめ、追い詰める状態だといえます。

健全な自分の土台は自分で築くこともできます。
その必要性に気づくことができた時から。

築く=気づく ウマイこといってみました(笑)

あなたにとって
自分は特別ではなくても大切な存在ですか?
そして周囲の人は
特別ではなくても大切な存在ですか?

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by dryangle | 2014-01-31 09:03 | ココロのカラクリ | Comments(0)
「影」の威力と効用
どうしても許せない。
激しい嫌悪感がわく。
憤りを感じて仕方がない。
不安や怯えに似た気持ちがわく。
負の衝動に自分を乗っ取られてしまう。

かつて心の痛みや苦しみ、悲しみを経験した時に
予想される同種の体験から、自分(の心)を守ろうと
「こうあるべき」自分のあり方や反応を選びます。

それはそのまま「こうありたくない、そうしたくない」
嫌う/苦手なあり方が規定されていくことでもあります。

動機となる元の経験による痛みが激しければ激しいほど
そのエネルギーは強さを増し、自分(や他者)のあり方への
必要性は異常なまでに強くなり、ついには反射的・衝動的
それと異なる(つまりは気に入らない)相手のあり方を見出し
恐れや憤りを覚え、攻撃したり、抵抗しようとします


周囲に不愉快な、気に入らない、許せない人や物事が
満ち溢れて苦しくなり、いよいよ自分が追い詰められた
果てに…

ようやく他者のあり方にその「影」を映し出す
映写機が自分の心の中にあったことに気づくこと
できるのかも知れません。

誰かやそのあり方、映写機すら排斥する必要はなく

そのスイッチをパチッと切ったら、あら不思議!
…なんでこんなことにコダわっていたのだろう?
目が覚めたように気がラクになるのです。
相変わらず、日々似たような出来事は起こってくるのに。

自分の内に映写機の存在を認めるまでが最難関

なぜなら、それこそが最大の憤りと攻撃と、恐れや不安
つまり抵抗の壁で守られているのですから。

これらを堅持し続けることによって、次世代(我が子)に
同質の映写機をそのまま増設してしまうことはもとより
次世代(我が子)や大切な相手をスクリーンにしてしまい
攻撃する対象、つまりは身内を敵に回してしまうことさえ
起こってくるのです。

またそれを顕在化させたくない気持ちによって、問題を
外側の社会や国家レベルのスクリーンに巧妙にすり替え
(られ)たりもします。

誰かの汚さ、弱さ、醜さ、ヒドさ、狡猾(ズル)さ、惨めさ
不正、不真面目さ、冷たさ、暗さ、非常識、無関心
など…

今それらにガンジガラメになって苦しんでいるとしたら
自分の内側の映写機の存在を認める勇気を持つ
絶好のチャンスなのだと視点を変えてみてはどうでしょうか?

それによって、あなたの映写機に「愛や喜び」を
映し出させていくことができるのですのですから。

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by dryangle | 2014-01-23 11:08 | ココロのカラクリ | Comments(0)
自分という名の信念
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誰もが、その場や相手に対して(また集団の中で)
ほぼ無意識のうちに、周囲や生育過程の体験で学んだ
それにふさわしい自分を選択して演じます。

意識にないということは、もはや反応として。

私事ですが、思春期には相手によって自分を演じ
分ける自分
に違和感を覚え、許せなくも感じました。
シンドかった~^^;
人によっては、それが不得手がゆえに悩みとなる
こともありますよね。

けれど、それはそれでごく自然なこと。
すべては確立された自分による心の反応
自分の維持と防御のためのシステムなのですから。

とはいえ、いつの間にか周囲に誰もいない
一人の時ですら「あるべき自分(役割)」を
演じ続けるようになります。

これがイキイキとした喜びを生むなら、ともかく
感情・思考・行為のすべてが過敏といえるまでに
「あるべき、すべき、したい、せざるを得ない、など」の
プレッシャーとして通常作動しているとなると
もはや強迫といえるのではないでしょうか?

大海原や星空を見つめ、「自分を脱いだ」刹那の
解放感を知った時から、その状態を忘却し
自分を、役割を、演じ続けることが苦しみの
本源ではないか?
と考えるようになりました。

周囲の出来事がシンドイ
他者とのトラブルがシンドイ
身体がシンドイ
恐れや不安、焦りや憤りがシンドイ
マンネリがシンドイ

もはや信念ともなった自分を演じ続ける人は、やはり
無意識に物事や他者にも一定の反応を期待/強要しがち。

連綿と続くこういった関係性が苦しみを生む出来事の
温床となっているようです。
好きな言葉ではないのですが、こういった連続性を
カルマとも呼ぶのかも知れません。

最近漠然と、そういったすべてをキャラごと手放す
ことが可能(必要?)だと感じています。

そのためには、自動的な反応となった自我の演出に
今その都度、気づいていること
つまりそれと距離を置いた別の視点を得ることが
一つの道かと思います。

今頭に浮かんでいるその思考も自動反応かもよ!
自作自演なのかも知れない?
ぜひそんな風に意識の目を向けてみてください。

夢の中で、眠りから覚めようとするあの感覚です^^

しばらく自分(の考え方、感じ方)と距離を置いてみる。

幻想はそれと見抜くだけでいいのですから。

表面の形式や行為ではなく根底の反応が変われば
結果が変わります。

…あ!、前回の続きじゃなくなってしまった^^;
影(シャドウ)も自我の一部ですが、またあらためて。

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by dryangle | 2014-01-17 10:07 | ココロのカラクリ | Comments(0)
感応と共感―似て非なる。
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自他の感情の区別~自分の感情の主導権を握るのは誰か?~

親が自分の負の感情に責任を持てず、それを子どものあり方に
転嫁して子どもの心をくじく。
子どもの感情が汲み取られず、否定され、無視されることが当たり前。
親の機嫌が絶対則

このような家庭に育つと、それらの経験が痛みの感情と結びついた
記憶として蓄積され、その反応を予測するようになります。
つまり子どもは親の顔色を見る/機嫌を伺うようになるのです。

それが訓練づけられていくと、親の不愉快・不機嫌に応じて
自分の感情も激しく動揺するようになります。
つまり親の感情と自分の感情の境界線が曖昧になるのです。

他者の気持ちに感応し、気持ちを同化させるあまり
自分の感情を切り離すことができなくなっていきます

また親(相手)の感情を自分がなんとかしなければ
あたかもそれが自分の責任だと思い込むようになります。

これが他者との関係においても同様に行われるようになります。
気がきく、気が回る(悪くいうと扱いやすい)と評価されがちですが
人づきあいに緊張し、疲労することになるのです。
俗に神経過敏といわれるような状態です。

また感じ方や考え方が万人共通のもの(であるべき)だと信じ込み
それを自分や他者に強いることとになりがちです。

しかも自分が優位に立った時には、反転して自分の不愉快は
相手がなんとかするものと、他者に心の奉仕を要求したり
ともすると、他者の感情をコントロールしようとすることが
是となり、独善的にそれを行う側ともなり得るのです。

周囲の状況をコントロールしようと不毛なエネルギーを消耗し
不要な摩擦を生みだすのはこのタイプの人にありがちです。

このような心のあり方、その関係が不健康であることは
いうまでもありません。

共感は自分の感情でするモノ~混同され美化される苦しみ~

本当の共感というのは、自他の感情の区別がついた上
それが調和するというだけのこと。
気持ちの主従関係が存在しないことが大前提なのです。

その真偽は簡単に見抜くことができます。
前のタイプの人は他者の喜びには共感(実感)しにくいもの。

もとより自分の正直な感情を自覚したり表現することに
恐れや罪悪感を覚えますし
最大の悲劇といえるのは、自分の喜びや幸福すらも
実感しづらいことです。
嫉妬やとまどい、違和感、否定的な感情がムラムラわき起こります。

無理もありません。喜びも、感謝も、自発ではなく強要されて
きたのですから。

共感できる人は、たとえ同感できなくても、感じ方の違いに
動揺することなく、穏やかな気持ちで受けとめることができるでしょう。

悲しいんだ。悔しいんだ。ツライんだ。ムカツクんだ。
嬉しいんだ。ヨカッタんだ。スゴイんだ。頑張っているんだ。

自分のそれと同様に他者の感じ方をありのまま肯定できるのです。
機嫌をとろうとせずに、無理に分析や否定をしようとせずに。

共感に癒されるとすれば、そのようなあり方に接することで
別の新たなスタンスに気づいたからだといえます。

…じつはワタシ自身感応しても、共感のできない人間でした。
いえ、むしろ共感しているつもりでいた人間だったのです^^;
大きな違和感と苦しさを抱え込みながら。

「ヒトに他人(の心)は救えない。」

これが腑に落ちた時、目からウロコが落ちる想いを
しました。

誰もが自分の気持ちの主導権を認識することで
それによって自分を救うことしかできません。

とはいえ、すべてのヒトが自分で自分を救えれば
十分だともいえるのです^^

…アナタも誰かの感情を背負って苦しんではいませんか?
誰かの不快や不機嫌に怯え、動揺していませんか?


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by dryangle | 2013-11-10 09:20 | ココロのカラクリ | Comments(0)
承認欲求?それとも承認強迫?
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自分の心の内に隠された欲求に意識の目を向ける(気がつく)と
気が楽になります。…というようなセラピーの技術にも関連しますが

欲求という言葉では掘り起こせないモヤモヤもあるように思います。
ごく個人的な考えで恐縮ですが、どうかお付き合いくださいませ^^

たとえば、とくにマズローの欲求の階層説(※下記に説明)でも
知られる「承認欲求」
これは集団や他者(その象徴として親や権威者)に認められたい
という誰もが思い当たる(?)欠乏欲求の一つです。

この欲求が妨害されると、劣等感や無力感などの感情が生じる
というので、いわゆる現代病の一因としてもよく取り沙汰されています。

とはいえ。心に漠然とした「生きづらさ」を抱えている人の中には
マズローの説に従っていうならば、前段階である「所属と愛の欲求」
得られずに葛藤していることも多いように個人的には感じています。

とくに社会的に和を持って尊しの文化背景にある日本においては
所属することにすでに承認を要するという土壌があります。

人によっては承認が前段階までの下位欲求を満たすための
必要条件にすらなっているといえるのではないでしょうか?
(ちなみに「認められ方」に「上位承認・対等承認・下位承認」という違いも)

…ともすると、欲求を満たさないどころか「くじく」気質すらあるように思います。
後にふれますが、誰かが相対的に「自己承認」を得るための方法です。

承認が得られない≒くじかれる(ポジション、愛が得られない)=不安、緊張、恐れ

「対人恐怖症は日本の風土病である」とは一部でいわれていますが
こうなると本来的な欠乏欲求である以上に、承認を強く求める、つまり
強迫的に求めざるを得ないということが起こるかと思います。

またその強迫性により、自分の心の中に条件を大きく強く構築することで
自己承認の垣根が高くなり、自己を検閲し「自分を認められない(許せない)」
という反応としての心情と行動を起こすまでにいたります。
もはや他者の反応や評価が間接的な刺激や目的と化すほどに。

実際には自分が自分を認められない(許せない) 

その苦しみを和らげるために、自分や他者に不必要な言い訳(理由づけ)をしたり。
自分を相対的に引き上げるために他者をくじいたり。
さらには承認を得るために自分に強いた/押さえつけた部分を触れられると
激しい抵抗がわき起こったり。他者に対しても相応する部分に
「認められない(許せない)」心情がムラムラとわき起こったり。
同じ尺度や価値観をその相手に強要したり。

「今の自分」を守るための過剰防衛。

そして、それがまた関わる誰かの心に 承認が得られない=劣等感、無気力
(人によっては)≒ポジション、愛が得られない=不安、緊張、恐れ=不安、緊張

といったシステムを発動させることになります。

…当然ながら対人関係に苦しみがついて回りますよね^^;

このような関係性の連鎖に、誰が気づきという意識を持って切り込むのか?
「承認強迫」というカラクリを、まずは自分の心の内に探し当ててみませんか?

※マズローの『欲求の階層説』
1.生理的欲求(Physiological needs)
2.安全の欲求(Safety needs)
3.所属と愛の欲求(Social needs / Love and belonging)
4.承認(尊重)の欲求(Esteem)
5.自己実現の欲求(Self-actualization)
低次から。先の4つは欠乏欲求、最後の1つは存在欲求とされる。
米国の心理学者アブラハム・マズローが「人間は自己実現に向かって絶えず
成長する生きものである」と仮定し、人間の欲求を5段階の階層で理論化したもの。

余談なのですが、強迫が高じると狂気が増すように思います。
承認においては「他者承認<自己承認<運命や神(代わりに居座った親や
権威者)の承認」の順でその狂気のスケールが増すのではないでしょうか?
また中でもとりわけ自分の領域である「自己承認」の強迫に気づくことが
承認に飢える痛みや苦しみから解放されるための近道のように考えます。


翌年の記事感情と向き合うコツもどうぞ^^

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by dryangle | 2013-09-30 12:19 | ココロのカラクリ | Comments(0)
心のツボ押し
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最近よく目(耳?)にするスピリチュアルな浄化といった言葉には
個人的にあまり反応しない(というより慎重な)のですが、中には
多分に心理療法的なものもあります。

たとえば感情を解放するテクニックだとされるセドナメソッド

参考までに本を一冊読んではいたのですが、目についたので
たまたま読み返したら不思議な体験をしました。

「人間関係を改善する」といったくだりなのですが
前に読んだはずなのに、内容をさっぱり覚えていない!

???

ここまで既読感がないのも、かなりの驚きだったのですが
そりゃぁたんに記憶力のなさだよっ!と自分でツッコミながら
読み進めていくと…

いくつかの質問に答えることで心の深層に切り込んでいくという
手法は使い慣れているのですが、「一掃手順」というツールは
タイムリーに自分が認識していた壁を浮き彫りにしてくれました。

ある(特定の一)人に対して自分の中に抵抗がわくことを
抗えないという気持ちや罪悪感に縛られていることを
ワダカマリとして抱え込んでいる自覚はずっとありましたが

「その人はあなたを制御(コントロール)しようとしましたか?」

という始まりの質問から胸の疼きがズキズキ発現し

「相手の承認を求める気持ちを手放せますか?」
「相手から自分を守りたいという気持ちを手放せますか?」

心にも身体にも、はっきりとしたコワバリを感じます。

一連の質問に沿って自分に問いかけていくことで最後には
受容へと導かれ完了するというプロセスになっています。
(…じつは未だこのプロセスを完了できていませんが^^;)

このような質問によって、問題となる相手(や物事)の等身大が
見えてくること、自分がそれを脅威へと肥大化させていることに
あらためて気づくことができます。

ワタシにとってはボスキャラなので、じっくり取り組むことに
しましたが、前に読んだ際に記憶にも残らないほど無意識に
読み流していたことに逆に大きく納得したのでありました。

今になってようやくそれと向き合う心の準備ができたんだよね。

この記事を書き終えた今には、ボスキャラという表現が
バカバカしく大げさに感じるほど相手に動揺していません^^

心を開くってこんなカンジ、の参考となればという体験談でした。

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by dryangle | 2013-09-12 08:32 | ココロのカラクリ | Comments(0)
自分と他人。その表裏一体
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最近の記事を読み返して、もしかして自分は他者不在の心
傾向性について書きたいのかも?と気がつきました。

それは他者を、心ある人つまり互いに心を通わせ、気持ちを
交わす対象として認識しづらい心の状態です。

「じつは朝から、頭が痛くてさぁ…^^;」
「あ、私も偏頭痛持ちで毎日のように痛いのよ~!」

いませんか?いつも自分(中心)の話にすり替えてしまうヒト。
私はこう(思う)の話しかしないヒト。

意識の焦点が自分にしか向いていない状態であり
一般的には自意識過剰ともいわれます。

もともと心の話題においては、これまでよく取り上げられてきた
主体性がなく、他人の顔色を見るような自己不在の心理。
(このタイプの人は自分ではなく、大抵常識や一般論、正しさ
の話をします)

これに対して、と言いたいところですが…

じつは他者不在は単純に自己不在の正反対という
わけではありません


たしかに意識の対象が自分か他者かの方向性においては
相対関係にありますが、どちらも自(分の内なる)意識が強い
がために、他者との対等な気持ちの交流が苦手という点で
同じカラクリの側面同士のように思います。

自意識は、(自分の中の)自他の心の境界線ともいえますが
自他の二極意識がとりわけ強く、その間の城壁を高く強固に
し過ぎた弊害といえるのかも知れませんね。

どちらも守りたいのは自分の心

心の交流の経験不足、もしくは偏りがそのベースにある…
いや、ぶっちゃけ見境なく侵入されることに耐えかねた
果ての心のあり方
には違いないかな?と思います。

ちなみにワタシ自身は、自己不在→他者不在(両方?)
→現在は?へと変遷しました^^;

人の意識が、自意識―関係性において、相手をけん制し
自己を守る、正当化する―のみではけっしてないことを
実感として知ることのできた今

その意識の主体の変化が、現実を変えていくということの
あらたな可能性を探してみたいと思います。

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by dryangle | 2013-07-26 10:00 | ココロのカラクリ | Comments(0)
殺してしまった自分
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ちょっとショッキングなタイトルですが…^^;

お子さんの「育てにくさ」、特定の家族や身近な人への「嫌悪感」

日々の些細な出来事で積もるこれらの感情がストレスになり
トラブルを生み、周囲の関係をこじらせていくことがあります。

相手のあり方の批判ではなく、自分側の感じ方に注目して
みることで、心に目の前の問題からある程度の距離を置き
互いの心や身体を痛めつけることを防ぐことができそうです。

相手やそのあり方に怒りや嫌悪感、「許せなさ」がわき起こる
理由としてまず理解しやすいのが、それが直接負の経験として
記憶されている場合です。

過去、誰か・何かの「そういう行動、そういう態度、そういうあり方」に
親や重要な人物が嫌悪/不快感を示したことが記憶されています。

反対に嫌な人にまつわる「そういう行動、そういう態度、そういうあり方」が
嫌悪(感を連想する)カテゴリーの中に記憶されていることもあります。

少しわかりにくいのが、そのような記憶によっていつの間にか
それらの出来事自体を自分自身にも禁じている
(もしくは逆のあり方を課している)ことです。
向き合うこと自体が面倒なこと、避けたいことだと感じます。

それをわざわざ禁じる/課するというエネルギーが必要だということは
自分の中にそれに反するかも知れない自分が存在していて
それを自分が殺してしまっているということ。

誰かや何かのあり方に刺激され、殺したはずの自分が悲鳴を上げる
これが気に障る、許せなさの正体です。

たんなる怒りの他に、恨みや嫉妬に似た感情が混じるかも知れません。
この傷みが、ある意味自分のコダワリや呪縛になっているのです。

これを解き放つには、その時々たんにそれと気づいていること。

これが私には許されなかったことなんだよなぁ
これこそ私が自分自身に許せないことなんだぁ
そりゃぁ腹も立つわ…のように
(かつてマンガを規制されたことが、わが子に対してはゲームを
嫌悪するというような置き換えによる差異はあるようです)

自分の内で理解し、真正面から見据えているということです。
無視をし続けると、鬱や無感情につながることも^^;

その反応を心から差し引き、今現在の問題とその相手の心情
(相手の感じ方や主観)を率直に受け入れる
ことで、双方の
気持ちが通い
、納得や合意につながりやすくなるように思います。

相手の側でも同じようなカラクリが作動しているはずですが
どちらか、誰かが気づくことによって、相手の反応との干渉も
静まりやすくなります。

それがあまり気にならない、大したことではない、気楽に取り組める
(放っておける)
というのが、誰かと互いに心を開いて通わせ合える

ニュートラルな心の状態

あらゆることに対して、そうあるようにできることが心の平安
それはある意味で殺してしまった自分を救うことなのかも知れません。

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by dryangle | 2013-05-23 14:19 | ココロのカラクリ | Comments(0)
手放すって 「問題にしないこと」
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これまでずっと意識をすることについて
ふれてきました。

今回の内容は、一見あたかも矛盾するかのようで
うまくお伝えできるといいのですが…

問題(と感じられるもの)を自分の内側と外側とに
分けてみると、混乱が少なくなるように思います。

自分の心の内と
外側といえる自分や周囲のあり方と

外側の問題は意識を向けるほどに
自分の考え方、感じ方をより強化し、固執し
大きくなっていき(いくように感じ)ます

だからこそ、意識の目を内側に向けることで
そこから目を反らし、かつ考え方や感じ方が
自分というクセであるという気づきを
得ることで新たな選択の可能性を開きます。

ところが、自分の内面と向き合うつもりでいたのが
ついどうしても外側(※とくに自分のあり方の)問題に
意識が集中し、それを変容しようと理由や原因を考え
固執することにすり替わっていってしまう場合があります。

さらには、そういう自分を確定・強化してしまう。

※この辺りがトリッキーなのですが、外への働きかけ
「自分のあり方」も外側の問題なのです。

じつは、これはこれでパターン化している人も^^;

もちろん他の人や状況のあり方に対しても同様ですが

知らぬが仏という言葉が示すように
出来事の事実そのもののあり方ではなく
自分の受けとり方(考え方や感じ方、それに伴う
身体の反応)が、とりもなおさず苦悩の本質です。

そのあり方がさしたる 「問題にならない」(ようになる)
過度に心の負担にならないこと。

これが一種の手放し、癒し、解放の成果になるかと思います。

そのためには、敢えて(外側の問題に)意識を向け過ぎない

とりわけ煮詰まった時こそ、とくに外側において
自分が喜んだり、安らげるものに意識の目を向ける

闇ではなく、光の方向に顔を向ける。

とは、そういうことではないだろうかと思うのです。

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by dryangle | 2013-04-30 10:30 | ココロのカラクリ | Comments(0)
劣等意識~消極的欲求~
心の不調や問題には、いわゆる「生きづらさ」から精神疾患までのスペクトラムがあります。
こちらでは、特定の療法や理論,思想にこだわらず、心理学・精神医学・カウンセリングなど
多分野から
心の癒しとメンテナンスに役立つ情報を集めています。
初めていらした方へ…dryangleとブログ金魚迷惑について


心理学や宗教をかじり始めると、言葉や表現は
違えど、必ずといっていいほど出くわすのが

自分の欲(求)に向き合うこと。

たとえば、悩みや苦しみの根っこが
承認(認められたい)欲求だとすると、それが
「確かにあるな~!」とストンと自覚できれば
それと向き合うという次のステップに進めます。

なにかが欲しくて、あきらめきれなくて悩む?

「自分はそんなに強欲でもないと思うけどな…?」

そんな風にピンとこない方が多いかも知れませんね。

じつのところ、やっかいなのは欲の裏バージョン
「それが欲しい!」というダイナミックな欲求ではなく
staticとでもいうのか、「それが(得られ)ないと不安
という感覚。

これを欲求の一つとして掘り出すことが
かなり難しいのではないかな?と思います。

それが(達成でき)ないと

自信が持てない
自分が無力に感じる
惨め、恥ずかしい
将来が不安、心もとない
サビシイ、悲しい
イケナイ(責められている)ような気がする
自分に価値がないような気がする

劣等意識とでもいえるでしょうか?

ストレートな欲求がプラスへの期待なら
それはマイナスを補償しようとする欲求だといえます。

私たち日本人には、文化の土壌のせいでしょうか(?)
どうもこのパターンが多いように思います。

また一見ストレートな欲求に見えるモノの裏に
これがあることが苦悩を生んでいる場合もあります。

今あるものへの感謝の気持ちを阻害する
つまり現実の幸福感から遠のくということ
慢性的な不足感へとつながっています。

親の愛への(もとはストレートだった)欲求不満が
カタチを変えてわき起こることで、現実の人間関係や嗜好
生活パターンのトラブルの根っこになっていることも。

自分の意識⇔現実の認識

こういった劣等意識を「消極的欲求」として
扱ってみると、不満やトラブルを生むパターンを変える
一歩になるように思います。

自分の心を満たすことができるのは自分だけ^^

そして、祈りは欲求からの要求ではないことが
実感できるのではないでしょうか?

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by dryangle | 2013-04-24 08:10 | ココロのカラクリ | Comments(0)

Illustration by ふわふわ。り