金魚迷惑

★☆★不定期更新★☆★


~外側からしか見ることのできない自分を閉じ込めている檻~

人間は、これこそが自分自身だと思っているものを守ろうとして壁をめぐらす。
そしてある日、その壁の内側に閉じ込められ、出られなくなってしまうのだ。

ロバート・フィッシャー『ナイト』より
Men are not prisoners of fate, but only prisoners of their own minds.
ーFranklin D. Roosevelt
The significant problems we face cannot be solved at the same level of thinking
we were at when we created them.
-Albert Einstein


気づいてみる。意識してみる。何かが変わり始める。
流れをイイ方向へと転換するターニングポイントを一緒に探しませんか?
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●過去記事のタイトル別一覧表●

"自分"に疲れていません?
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Carpe Diem
自分を生きることに
疲れてしまったら…
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自分への要求
誰かに甘えられない。他人や自分を責める気持ちが起こる。
いい加減なことや楽しむこと、休むことに罪悪感を感じる。
したいことをするのに、代償が必要だと考えてしまう。

なにかにつけ
こうでなければいけない・こうしなければいけないような
窮屈な気持ちになる。

また自分への要求の強さは、他の人への期待や要求の強さと
正比例します。(美徳や美意識は、あくまで自覚するもの
であり、他者に期待や要求をするものではありません。)

自分の評価の基準が、自分や周囲を不愉快にさせてはいませんか?
この基準や価値感は、心の中にセットされたプログラム。
ある条件に反応して、無意識に起動する仕組みになっています。

その頑張りから得たいものは、ズバリ自己肯定感
(いわゆる自分に自信ってヤツですね)


もともと今そのままの自分の価値が、認められ、受け入れられ
大切にされ、やさしくされ、許され、包まれる穏やかな安心感
誰もが求めているのです。

それが与えられずに、こうであったらと条件ヅケされていくうちに
心の中にそれが観念(というプログラム)となって固定します。
これらは日々の繰り返しによって強化され、より頑なな
コダワリになっていきます。

そして成果によって得られる優越感を、自己肯定感だと勘違い
して追い求めるようになるのです。
(優越感は、比べるという対照依存の感覚です)

もちろん、肝心の自己肯定感も、条件ヅケされ、強化されていく
観念に他なりません。

さらに無条件に、自分以外の誰かを、認め、受け入れ、
大切にし、やさしくし、許し、包むというプログラム

至っては、ほとんど普及しないまま^^;

こんな状況で、条件ヅケや評価基準ばかりが厳しくなっていくと…?

多くの人のココロが機能不全になってしまうのは
当然のように思えませんか?
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# by dryangle | 2007-08-28 10:19 | ココロの不調 | Comments(2)
ハッピーは自分の中に築くもの。
「愛と犠牲」の話題に関連して、しぼんだまさんという方から
コメントをいただきました。
そのしぼんだまさんが気づきや前向きな勇気を得ることのできた
ある女性からのアドヴァイスが、本当にとても素敵なお話なので
ぜひ紹介させていただきたいと思います。

私も2度危機があって、夫婦でカウンセリングにかかったの。
最初は子供が小さい時が最初だったわ。
夫は仕事でイライラして私に八つ当たりにしてた。
よく東洋の人って子供のためにとか家族のためにと言って
犠牲を払ってるでしょう。
本人がハッピーにならないで、子供をハッピーにするなんて
理論は成り立たないの。
夫は妻をハッピーにする。妻は夫をハッピーにする。
2人で歩み寄って行かなきゃ。
そしてそれを見て子供はハッピーになる。そして家族になるのよ。
あなたが今離婚しないのは子供のため。
自分の人生もハートも犠牲を払っているんです。
私はハッピーじゃないけど、子供のために家庭に留まっている。

なんて思い続けたら、改善のスピードが遅くなるし、何も変化しないかもよ。
旦那が意地悪なことを言ったら離れるの。
彼がトリックをしかけてきたら、そのトリックをしないように言うのよ。
彼が努力を放棄したら別れるだけの価値はあります。
決して子供のために私は家庭にとどまるなんて思ってはだめ。
私もハッピーになりたい。そして彼にもハッピーになってもらいたい。
そう思い続けて。


このお話は、とても大切なことを教えてくれているように思います。

問題は結婚生活を維持するか、否か?ではなく
シアワセを築く選択をするかどうか?だということではないでしょうか?

ひたすらに耐える(犠牲になる)ことで結婚生活を維持する
夫婦(親)を見て育つ子供は、それが過酷なものであるほどに
自分の将来の結婚生活に夢を見いだすことができなくなります。
その結果、結婚自体を望まなくなったり、また
うまくいかないのなら、お互いのために別れるべき
という考え方が生まれてきます。

それもそれでヨサソウなものですが、どちらにしてもその未来には
家族がシアワセに暮らしていく方法を見つけ出せないままの
子供達が再び育っていく、という運命の伝承が存在します。

暮らしや家族のスタイルは多様であってよいと考えますが

犠牲ではなくシアワセを築く決意をし、前向きに歩むヒト
そしてその姿から学ぶことのできるヒトが
シアワセに暮らしていく方法
得ることができるのではないでしょうか?


I'd like to give a HUGE THANK YOU toしぼんだまさん.
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# by dryangle | 2007-08-18 18:54 | パートナーとの関係 | Comments(1)
愛と犠牲(2)
(前回からの続きです)

人の心にダイレクトに作用するものは、表面の行為の種類ではなく
その心のあり方なのではないでしょうか?

は相手の幸福を願い、相手を癒そうと努めること。
そのためのコミットメントは本人は苦痛を伴いません。
むしろ与えることによって喜びや満足というエネルギーを還元します。

ところが、愛を伴わない犠牲は明らかに抵抗や苦痛を伴います。
意に反していたり、心に余裕のないままに差し出し・持っていかれる痛みです
結果として、こちら側が得るものへの思惑が外れると憎しみをも生み出します。

相手へと差し出す行為の目に見える部分が同じであっても
その関係の成り行きは全く違ったものになっていくのです。


犠牲によって支えられた関係は、やがて必ずなんらかの歪みが起こり
破綻へと向かうものではないでしょうか?

前述の話であれば、木の幸・不幸も、さらにはちびっこのそれも
ストーリーの結末は、木の真意によって変わってしまうように思うのです。

あなたと周囲の人との関係は
愛に支えられていますか?それとも犠牲に支えられていますか?

*便宜上、という言葉を多く使わせていただいていますが
慈愛charityといった意味合いを意図しています。
また犠牲については、我慢という言葉に置き換えてみても
いいかも知れませんね。
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# by dryangle | 2007-08-10 03:32 | 周囲の人との関係 | Comments(0)
愛と犠牲(1)
米国の絵本作家シェル・シルヴァスタイン(Shel Silverstein)の 
おおきな木(The Giving Tree)という話をご存知ですか?

一本のりんごの木は、かわいいちびっこと仲良しでした。
ちびっこは木と遊び、木が大好きで、だから木もとてもうれしかったのです。
時は流れ、ちびっこは大きくなり、いつしか木に会いに来なくなりました。
ある日、成長した彼が木のところへやってきます。
木は昔のように遊んでおいきと言いますが、彼は言います。

かいものが してみたい。だから おかねが ほしいんだ。
おこづかいを くれるかい?


木は困りましたが、りんごの実をすべて与えます。
大人になった彼は家を欲しがり、木はその枝を与えます。
やがて年老いた彼は船を欲しがり、木はついにその幹を与え
切り株になってしまうのです。


木は、心から喜んですべてを彼に与えたのでしょうか?

このような問いかけに、日米の子供の感想に差異があった
という記事をどこかで読んだ記憶があります。

アメリカの子供達の多くが、その行為を

木の本望だった

と答えたのに対して、日本の子供達には

不本意ながら、彼のために仕方なく応じた

という感想が多かったらしいのです。
(出典を思い出せません。すみません^^;)

もちろん、どちらかの解釈が正答というものではありません。
そう感じた当人にとって、感じるそのままが真実なのではないでしょうか。

木は本当に幸せだったのでしょうか?
木が彼にしてあげたことは、彼のためになったのでしょうか?


ところが、この問いかけには

それが木の本望であったか、不本意な行為であったかによって
結果が反転する


とワタシは考えるのです…

(続きは次回に)
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# by dryangle | 2007-08-10 03:15 | 周囲の人との関係 | Comments(7)
"役割(仮面)"を愛する悲劇
ヒトは意識的・無意識的に自分の役割を選び演じている
という話を耳にしたことはありませんか?

良い人・役にたつ人・学歴や社会的地位の高い人・ハンサムな人・稼ぐ人
優等生・勤勉な人・やさしい人・頼りがいのある人・良妻賢母・愛嬌のある人
頼りない(守ってあげたくなるような)人・尽くす人・他人をたてる人
言いなりの人…


誰もが自分の価値を認められるために
これまでの経験によって得た、さまざまな役割を演じる努力をしています。
とはいえ、役割によって自分の価値を認められようと
(または誰かの価値を認めようと)し始めると
しだいに"こうあるべきだ"という観念が強くなっていきます。

そのために愛する・愛されるということまでが
≒役割を評価する(される)こと


へとすり替わってしまっている人も多いのではないでしょうか?

皮肉なことに、ヒトの心はその役割が評価されることで、ある種の満足や
安心感を得ることはあっても、自分自身が愛されているという実感や喜び
を得ることは難しいようです。

なぜなら役割は自他の期待値であって、ありのままの自己自身ではない
ことを本人が一番よく知っているから。
役割が当人にとって仮面(表面)である人ほど、その仮面(表面)の方が
愛されることへの疑問や不満に耐えられなくなるように思います。

その役割を満たさない自分をも肯定され・尊重され・受け入れられる時
ヒトは愛されていると感じることができるのではないでしょうか?

愛を定義することは不可能なのかも知れませんが
相手の役割ではなく、その人そのものを肯定し・尊重し・受け入れたいと
心から願った時に、愛することの真実を知るように思います。

そのためには、相手の演じている役割のその奥を見つめる視点を得る
ことが必要だと感じます。
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# by dryangle | 2007-07-28 21:14 | ココロのカラクリ | Comments(0)
ヘタでも生きろ、元気に生きろ。
わが子は幼い頃から絵を書くのが大好きです。

毎日毎日あきもせず、そしておびただしい量を描きまくるのです。
いつの頃か、コピー用紙の束をポンと買い与えるようになったのですが
それもガンガン消費して、描いた絵(たまった紙)を定期的に処分する
仕事が加わるようになりました。

いつもの光景ながら、最近その絵を何気なくのぞいて見たら
驚くほどに上達しているではありませんか!
(多分)一般の大人では、ちょっとやそっとでは真似できない絵を
描いていることに不思議な衝撃を覚えました。

かくいうワタシも、幼い頃絵を描くことが好きでした。
ところがちょうど今のわが子の年頃までに、自分の絵を他人に
見せることを嫌って隠して描くようになり、描いては気に入らずに
ガッカリして、そのうちに描かなくなってしまったのです。

いつのまにか自分の中に築かれた厳しい評価の目が
描く楽しみを奪ってしまった
ような気がします。

思えば、その後必要になった二つの外国語習得にも
同じことがいえると気がつきました。

最初は新しい言葉を知ることが楽しくてたまらなかったのに
ある程度になってくると、自分のレベルが恥ずかしくなって
どこか逃げ調子になってしまう気持ち
(現実生活では逃げられませんでしたが^^;)。

そんな昔話や想いを、わが子にかいつまんで話したら
かつて持っていた子供用カルタの読み札にあった言葉で

「『ヘタでも歌え、元気に歌え』なんだよねえ!」と一言。

たしかに「ヘタでも喋ろ、元気に喋ろ」だよなぁ…
言葉も絵と同じでそうしているうちに、気がつくと
ぐんと上達しているものかも知れない、と内心で思いながら

ヘタでも生きろ、元気に生きろ。

という言葉がアタマに浮かびました。
自分への厳しい評価の目が、生きる楽しみを奪ってしまわないように…
そんなことを考えさせられました。
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# by dryangle | 2007-07-10 11:37 | 子育て・教育 | Comments(0)
操作主義と子育て~子供をプロデュース!?~
心の不調や問題には、いわゆる「生きづらさ」から精神疾患までのスペクトラムがあります。
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操作主義(operationalism)
なにやらカタクルシイ言葉でごめんなさい^^;

もともとは物理の領域から出た言葉らしいのですが
昨今は心理的な内容によく使われているようです。

平たくいえば
自由に他人を動かしたい、操作したい。

という、いまや多くの人が陥りがりな心理。
ワタシ達の心の奥に根付くこうした操作主義的な心理
現代病だとさえいわれています。

現実には、真の共感を得ることなしに相手を
本心から動かすことは不可能です。
何が正しくて、何が間違いといった価値基準を
自分を超えた範囲に期待するのも同じこと。

だからこそ、操作主義的な心理を持つ人は

相手の人格を尊重して、共感を得る努力をすることよりも
相手の人格を支配して、従わせることを選んでしまうのです。


親子関係では、ほぼ子供の側の人格が支配下の状態から出発するので
勢い子供はそのまま親の操作主義的心理を満たす対象になりがちです。

今では子供をコントロールする親という言葉の語感に
危機感を覚える人も多くなってきたのではないでしょうか?
ところが、なんと昨今子供(育ち)をプロデュースという
言葉をよく目にするようになりました。

本質ではなく、言葉を変えることでイメージUPができるものだと
つくづく感じます(〃´o`)=3

心理的操作・被操作の関係を絶つことが、子供の自立・親の子離れであり
そこを目指し、取り組んでいくことが子育ての目標なのではないでしょうか?

~~所感の追記~~

最近また妻として母としての名プロデューサーという
言葉に出くわしました。

考え方のヒントも目にし、ようやく自分なりに整理がついたのは

子どもや夫を自分の自己実現の道具にしているという
意味でのプロデュースはやはりとても危険ではないかということ。

反対に子どもや夫の自己実現のサポートを買ってでている
という意味でのプロデュースは素晴らしことなのではないか?
という視点に今回思い至りました。

2010年3月
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# by dryangle | 2007-06-25 15:42 | 子育て・教育 | Comments(0)
やさしくできないのはなぜ?
それは、ズバリ。
やさしく仕方がわからないから。
なぜなら、それまでやさしくされてこなかったから。
代償を期待されるニセのやさしさにしかふれてこなかったから。
失敗や、弱さや、欠点、みっともなさを、やさしく許されたことがなかったから。

そして…
自分の方がやさしくしてもらいたいから。

相手の失敗や弱点に、不満がわいてやさしく許すことができない。
相手の言葉が自分への責めに感じられ、過剰に反撃してしまう。
思いやりややさしさ、共感といった言葉が偽善に感じる。
誰かに自分の弱さや欠点を見せることに抵抗がある。

これらはすべて、これまで周囲の人から学びとった心のあり方です。

この世に信頼に足るヒトはなく、この世は信頼に足らない場所である。

というメッセージを受けて、生きてきた結果に他なりません。

…ワタシ自身もその一人でした。

まだ子供の頃、お友達の家に招かれた時にウッカリ食器を落として
割ってしまいました。その家のお母さんは

「大丈夫?怪我はなかった?」と聞いてくれたのですが
ワタシは失敗への罪悪感から、ひたすら謝り続けていました。
そのお母さんが「モノよりもヒトの体の方が大切でしょう?
と言った言葉を、今でも衝撃的に覚えています。

ワタシの方が大切? 

こんなワタシが大人になり、誰かにやさしくしようと望んだときに
当然どうやって接したらいいのかわかりませんでした。
記憶の底から探し当てたのが、この出来事だったのです
(こんな経験すらなかったら?と思うと、気持ちが凍ります)。

物事の結果よりもアナタ自身の方が大事だよ。

そうイメージして、言葉や態度を選ぶように努力してみました。

知らなければ、練習しなければ、できるはずがないのが当たり前。
やさしさや思いやりが、高度な能力なのだとつくづく知りました。

ある人の役割よりも、その人自身の方が大切だと思えますか?

親として、子供に伝えておきたいことはそれだけです。
ワタシもいまだ発展途上人なのですが。
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# by dryangle | 2007-06-06 14:51 | 子育て・教育 | Comments(0)
心が極楽に住める方法
変えようとしてもなかなか変わらない性格
ふとしたキッカケでコロコロ変わる気持ち

についてアレコレ知り、想ううちに

心の変化に対するイメージは化学反応のようなモノ
だと感じるようになりました。

人でも芸術でも、物事でも、自分以外のに触れ
ヒトのは良くも悪くも変化する。
もしかすると、八方ふさがりの自分のを変えるためには、
自分以外のに触れることが必要だともいえないでしょうか?

そんなことを考えるたびに、仏教説話の↓長い箸の話をイメージします。

極楽も地獄も全く同じような場所であるという話です。
どちらの世界にもテーブルの上にご馳走が並んでいますが
お箸が異常に長いそうです。
極楽では、席が向かい合ったもの同士が、お互いの長い箸で
食べ物を相手の口に運んでみんなが楽しく満腹になれるのですが
地獄ではだれもが長い箸をつかって相手の席の食べ物を奪おうと
するので、うまく食事が出来ず、皆がいつまでたってもご馳走を前に
お腹をすかせているのです。


この食べ物を、人の心の栄養に置き換えてみると
まさにこの世そのものの感がありませんか?

今、人のが飢えきっている状況は

目の前にいる人の心を満たそうとせずに、我先に奪おうとする
地獄絵図といえるのかも知れません。

この場所を極楽にする方法が見えてきませんか?

※キリスト教関連では長いスプーンの話になっているようです。
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# by dryangle | 2007-06-01 20:04 | ココロと思想 | Comments(2)
そこに愛はあるのかい?
誰もが、求めながらも(求めていることに気がつかないヒトもいますが)
その実体がわかりにくい
古今東西、多くの偉人がの定義を語ってきました。

キリスト教世界のエロスと(フィリアと)アガペーの区別は有名ですが
ワタシは、二つのベクトル(エネルギーの向き)によって分けられる
ように思っています。

一つは自分の心を満たし安定させるための求める向きのエネルギー
もう一つは相手の心を満たし安定させるための与える向きのエネルギー

関係の双方が求める一辺倒だとエネルギーが分散して、
その関係は不安定になり破綻しかねません。
それでも当人はしている(≒求めている)と感じているのです。

関係が(真の意味で)安定するには、一方(もしくは双方)に
相手(の心)を守ろうという心の方向転換が必要だといえそうです。

ごくシンプルにいえば相手を許し、相手にやさしくなるということですが…
これができずに苦しむヒトのなんと多いことでしょうか。

それは自分を許し、自分にやさしくなる気持ち
表裏一体の同じ能力だといえます。
つまり自分を許せず、自分にやさしくなれないヒトが多いとも
いえるのかも知れません。
それができるヒトは、相手(の心)を守ることで自分自身の心も穏やかさと
安定の恩恵を受けている
のです。

相手の反応の如何ではなく、そうすること自体に喜びを感じる時
の絆を強めるエネルギーが発揮されます。

する能力は磨くものだとつくづく思います。
アナタは誰かをしていますか?
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# by dryangle | 2007-05-29 09:31 | パートナーとの関係 | Comments(0)

Illustration by ふわふわ。り