金魚迷惑

★☆★不定期更新★☆★


~外側からしか見ることのできない自分を閉じ込めている檻~

人間は、これこそが自分自身だと思っているものを守ろうとして壁をめぐらす。
そしてある日、その壁の内側に閉じ込められ、出られなくなってしまうのだ。

ロバート・フィッシャー『ナイト』より
Men are not prisoners of fate, but only prisoners of their own minds.
ーFranklin D. Roosevelt
The significant problems we face cannot be solved at the same level of thinking
we were at when we created them.
-Albert Einstein


気づいてみる。意識してみる。何かが変わり始める。
流れをイイ方向へと転換するターニングポイントを一緒に探しませんか?
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"自分"に疲れていません?
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「正しさ」へのこだわり
前回の話とも少々関連していますが…

正しさへのこだわりは、自分の心を守るためのパターンだといえます。

そのヒトの感覚による正しくないことは、過去からの体験により
責められること・罰せられること・償うことに自動的につながって
不愉快な感情や恐怖心、抵抗を呼び起こします。

ワタシにも覚えがありますが、そこから自己回復を図る、いわゆる
自(尊)意識を守るために自分を正当化したり、正しいか否か?
合理的かどうか?につい固執してしまったりするのです。

自分の側の正しくなさにより「責められる・攻撃される」のではないか
という恐れ・イヤな気持ち(実際に責められた経験によってすり込まれた
反応)に突き動かされているからだといえそうです。

これらは罪悪感や劣等感、被害意識(妄想)などと呼べる
不快反応

恐ろしいことに、この不快反応
喜び・楽しさ・幸福・安心・充実といった肯定的な感情を
感じさせなくしてしまいます。

もちろんこの不快反応はとりもなおさず
自己嫌悪や自分を攻撃する気持ちでもあるのです。

自責(自分への攻撃)と他責(相手への攻撃)は、性格による方向性の違いだと
思っていたのですが、「自責に耐えるキャパシティを超えると他責に転ずる」
と考えている専門家もいるようです。

周囲の人に責められることで、自分の中に作り上げられた
周囲の目(もしくは世間)が自分を責め、あふれたエネルギーが周囲を責める
(過度になると暴力に発展します)。それがまた誰か(別なヒトや子供たち)の
不快感情の根となり…
このスパイラル、多くの人が思い当たるのではないでしょうか?

これを癒すためのファクターとして、ちまたでは許しや感謝といった
概念が出回っていますが、この境地に至るにはそれぞれの関係の中にある
さまざまなカラクリに気づき、根気よく向き合う以外にありません。

まず自分を許すことができたら、このスパイラルを止める第一歩
(反省は大切ですが、叱責はベツモノです)。

そして他者の失敗や考え方/感じ方の違いを許してみる。

自分だって「悪くない」。
同じように相手だって「悪くない」。

問題は誰かが責められるべきものではなく協力して改善するもの

お互いに心からそう思えるようになった時に、関係が変わるように思います。

Jan. 25 '13 加筆修正
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# by dryangle | 2007-01-18 17:38 | 周囲の人との関係 | Comments(2)
「主導権争い」の戦場を去る
誰かと対立した時に

「これって間違っていますか?」
「○×(誰ソレ)もそう言っています」
「○×(本やTV)でもそう言っていました」
「○×(対立する相手)に理解させたいのです」

このような言い方をするヒト、けっこういますね。

この場合、自分の側の正当性を訴えることで
「自分を守ろう」としているように感じます。
以前にも書かせていただいた「自己防衛」のカタチです。

とはいえ、それが客観(常識)的に「間違っていない」と確信できたところで
自分の「対抗意識を正当性によって満足させるだけ」に過ぎず
相手との関係を良くするための手段にはけっしてなり得ません。

どれだけ「他の人(権威)による裏づけ」を並べ立てても、それは
パワーゲーム(パワーストラテジー)の燃料にしかならないと
ワタシは思います。

パワーゲーム(パワーストラテジー)

双方が自分のやり方で「相手の非を責める」ことに終始する関係です。
この「正しさの争い」で勝ち負けが決定しても、この関係がお互いにとって
幸福なものにならないことは想像がつきますよね。

世間を見渡すと、親子・夫婦関係から民族・国際関係にいたるまで
この関係で満ちているように思われます。

ましてや、家族という本来信頼し合うための関係が、パワーゲームの敵として
存在してしまうとお互いの生きるエネルギーを消耗し合ってしまいますよね。

家庭がパワーゲームの戦場と化してしまったら、まさしくそれは悲劇なのだと思います。

まずは自分がパワーゲームをしている事実に気づき、その戦場を去る。
これが肝心なのではないでしょうか?

この「関係性」の根っこにあるものは、お互いの中にある、これまで育ってきた
環境や経験によって築かれた「観念」そのものだったりしますから、すぐさま
簡単に発想を転換させるというわけにはいかないのが現実です。

そのためにカウンセリングの手法の多くは、親子関係や過去の経験を想い起こし
その都度、埋没していたネガティヴな感情の処理をする作業を地道に行っていきます。

どちらかが深刻なパーソナリティ障害を病んでいるというのでなければ
(一体誰が判断するのかという問題はありますが…^^;)

自分が気づき、自覚し、物事と感情の関連を整理したり、素直に感情を認め
上手く処理をする(それを表現してみる、誰かに共感してもらう)ことによって
ずい分と変わってくるものだと思います。

その上で「主導権争い」を回避する反応のパターンを、お互いに培っていくこと
ができるでしょう。

きっと誰もが心の奥で、相手に対して「自分を理解して寛容に接してもらいたい」
と望んでいるのではないでしょうか?

まず自分から、相手を理解することに努め、相手に寛容に接することによってのみ
それが叶うような気がしてなりません。

誰かと「癒し合う関係」になれたなら、生きるエネルギーを充電できそうですよね。
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# by dryangle | 2007-01-17 12:14 | 周囲の人との関係 | Comments(0)
心の大掃除
「意識」のチカラという強いコントロールによって
イキイキとした感情を磨耗させてしまっているようなヒトがいます。

このイキイキとした感情というのが、とりもなおさず「人間性」そのもの。
これを閉じ込めたまま、鈍化させたまま暮らすのは、監獄にいるような
ものかも知れません。

人間が共同で生活を営む社会では、ある程度感情をコントロールすることが
その関係を円滑にするために必要だとされています。

ワタシとしては、実際に必要なのは「反応としての表現や行動のコントロール」
なのだと考えています。

むしろありのままの感情や想いをキチンと意識するという作業を怠ると、心という
機(器)能が発育・代謝不全になってしまうのではないか?と考えています。

ちょっと抽象的でご理解しづらいかも知れませんね。

抽象的ついでにさらに話を続けると、ヒトは「意識」によって考えや行動を決めて
他の存在と交流・接触しているつもりでいます。
ところが実際には、こちら側の無意識の心の内容が、相手側の無意識のスクリーン
に映し出されていってしまうように、ワタシ個人は感じています。

伝える側・受けとる側の「意識」が愛した・愛された(励まし、やさしさ、思いやり
など)と認識していても、深層の交流において、それが成されていなければ
心が満たされることは決してありません。

反対に、表層では隠して言葉や態度で取り繕っても、意識の奥のカラッポさや
不安・不満・怒り・憎しみなど、実際に存在するものは、相手の心の奥へと
伝わってしまうように思います。

まず一歩、心の旅へと足を踏み入れるとしたら
自分の感情のフタをこじ開けてみることから始まるように思います。
意識がコントロールやブレーキをかけることを「意識して」ゆるめてみませんか?

怒りや憎しみという感情に気がついた時、それを周囲の人に転嫁しないと
意志がコントロールできればいいのではないでしょうか?

(意識レベルにおける)心の中で罵詈雑言もオッケイ(^∇^)。
また夢の中でそれらの感情が解放されていると、スッキリするのです。

感情を心がキチンと処理(代謝)できれば、奥に澱みとなって残りません。
無意識に、大切な相手に負の感情・感覚を押し付けてしまうことも減るわけです。

また喜びや楽しさといった感情を努めて意識するようにすると、その感覚が磨かれて
小さなことにもそれを感じるようになります。

「幸福になる」とはこのようなことではないか?と、漠然と考えています。
環境や条件ではなく、それは自分の「心という主体」が決めるものかも知れない…

そろそろ心の大掃除が必要な時期にきているのかも知れません。
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# by dryangle | 2006-12-07 13:24 | ココロのカラクリ | Comments(0)
ココロが渇いていませんか?
明らかな精神・肉体的な暴力によって傷ついた子供時代を
経たヒトは心が飢えています。

そしてもう一つ、表面はそれほど悲惨な状況には見えないとはいえ
他者と信頼し合うことや暖かいコミュニケーションを学び、育む
チャンスを得ることがなかったり、不足してきたヒトは心が乾いています。

他の人々が互いに共感し合う様子や、親密な関係を築いているのを見て
自分のふる舞い方に悩んだり、取り残されたような気分になるのは
また、いつもどこか傍観者のような心持ちがしているのは
自分が素直に感じたことを認められたり、気持ちを分かち合ってもらった
という体験が不足しているからだと考えます。

ワタシも、かつては乾ききって凍りついた心を抱えていました。
嬉しいことや楽しいことはもちろん、周囲が涙するような場面にも
動かない心に、自分は冷たい人間だと思い込んでいました。

仕方がないんです。

これも他の全ての感覚と同様、周囲の環境によって
養われるものなのですから。
愛情や思いやり(共感能力)・やさしさも一種のスキルであると
つくづく感じます。

そして、それらを通して他の人と交流する心地ヨサを知らないという
渇きを心が訴えているのではないでしょうか?

身近な親から、それらを学ぶことができなかったことは悔やまれますが
彼らを恨んだり、許しに努める、といったことから少し発想を換えてみませんか?

今から、自分の心に「自分で」それを育む努力をしてみることです。

辛い時、悲しい時に、気持ちを打ち明け(誰かに本心を見せることに
大きな抵抗があるかも知れません。
最初は演技でも(フリでも^^;)抱きしめてもらう。
相手が吐露した心情を、そのまま言葉にして声をかけてみる
(痛いんだね、悔しいよね。アタマにきてるね~!…などなど)。
些細なことに感動した時に、大切な人を抱きしめてみることから
始めるのもいいかも知れません。

こういった体験を積み重ね、少しづつ育んでいくことなのでは
ないでしょうか?

愛や思いやりを語る人はたくさんいるけれど、実際にそれらを
他の人の心に植えつけることのできる人はなかなかいません。

自分で種を探し、心に埋めて、自分で育むという課題を
背負っているような気さえします。

いつか、この渇きが癒されますように。
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# by dryangle | 2006-12-01 11:20 | 親子の関係 | Comments(0)
「意味づけ」の生き物 …人間
最近、流行りのスピリチュアル。その中に貫かれている思想は

「人生に起こることにはすべて意味がある」

という考え方です。

これに伴って、生まれ変りといった輪廻転生などの話題が
豊富に出回ってきましたが、私たち日本人にはかなり馴染みのある
死生観ではあるのですよね。

インドでは、バラモン教(古代ヒンドゥー教)を土壌にして
仏教(ブッダの教え)が起こったのですが、のちのヒンドゥー教にも色濃い
「輪廻転生(生死が、解脱のない限り永遠にくりかえされる」の思想の影響を
受けざるを得ませんでした(ちなみにヒンドゥー教では、ブッダも神々の一人)。

これがそのまま、小乗仏教(実際にはブッダの行った修行を行う教え)社会の
在家信者による「後生のために功徳を積むというあり方」につながっています。

じつは、ブッダ自身は死語の世界や輪廻転生について、具体的に
説かなかったという通説があります。

ワタシは、ブッダはすでに既存の言葉(通常の人の概念)を超越した世界観を
得ていたのかも知れない…と勝手に想像していますが、龍樹の『空論』など
後世の弟子や僧の解釈によって時空を越えた次元の思想へと変遷していきます。

ご存知の通り、大乗仏教は北伝し中国を経て日本に及びます。

その一部である浄土教は、日本では「念仏によって西方極楽浄土へ往生すること
をねがう」という意味づけがなされ、これが「死後のイメージ」と結びついた
ために(そしてその教えは広く流行しました)、日本人に「生まれ変り(輪廻転生)」
の観念が根付いていることはなんの不思議もないのですよね。

これに対して仏教の中には、わざわざ「現世往生・現世成仏」などという言葉が
生まれ、成仏(解脱)は「(過去・現在・来)世」にこだわるものではない
と説かれていくのですが…。

と、信者でもないのに延々と説明してしまいました^^;

ワタシ個人は、仏教の中の、絶対の価値さえも否定してしまう「空」という
概念をとても気に入っています。

物事になんらかの価値があるとすれば、それは人間の意識が創造したもの。

つまり「意味づけ」ですよね。人間にはそういった能力があるのだと思います。
この「意味づけ」は、生まれてこの方得てきた観念や思想・価値観によって
無意識的・意識的に行われるものですが、これが反対にヒトを縛って苦しめる
こともあり得ます。

これが、普段つらつらと考えている「心のあり様」と妙に符合するので
興味深い限りです。

各信仰の教えから流行のスピリチュアルまで、それぞれの人が、その思想や
世界観によって、自分の人生に「意味づけ」をしていきます。

これによって癒されたり、救われたりする、つまり「心の拠所」となり得ることが
それらの思想や世界観の本来の存在意義なのではないでしょうか?
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# by dryangle | 2006-11-28 15:51 | ココロと思想 | Comments(0)
大人の「赤ちゃん(コドモ)がえり」
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身近な人にココロ(ついにはカラダ)を傷つけられる。
そんな経験に耐えていませんか?

ここでは、どのように考え、対処していくかの「ヒント」を少々。

昨今、モラハラ・DV・虐待などの言葉を当たり前のように
耳にするようになってきました。

ワタシは、これらの性格(見捨てられ不安)の傾向や
引き起こすトラブルについて「大人の赤ちゃんがえり」と
イメージしてみると理解しやすいような気がしています。

つまり「ボク(ワタシ)を一番愛して」という
大人の駄々こね

大人ですから、その癇癪による脅し文句(嫌みや嘲笑、
否定や無視といった攻撃も含めて)や暴力ともなると
相手には、かなりのダメージを与えることになります。

また恋愛や結婚のパートナーには、無意識にその駄々こねに
「甘んじてくれそうな」タイプを相手として選んでいる
場合が多く、自己評価が低く、これもまた無意識に
「強く頼りになる人(支配者)」を求めている人と
ペアになっている状態が共依存と呼ばれています。

ここまで読まれて、DVという言葉がアタマをかすめるに
違いありません。
もはや支配ともいえる圧倒的なチカラで心身にシリアスな
影響を及ぼす懸念がある場合には、その関係の清算も含め
早急に対応策を考えることが必要です。

また絶対的な「弱き者」を、そのような性格の人から早急に
引き離すことが悲劇を防ぐことに他ならないのです。

ただ、トラブルがある程度のレベルに限られ、もし幸いにも
こちら側がまだまだ精神的に健康であるのならば、相手の
「赤ちゃん(コドモ)がえり」を防いだり、ケアしようとする
意識を持つことで、改善が可能な場合もあります。

そのポイントはただ一つ「安心させてあげること」。
これに尽きるようです。

子育てのプロセスでも「なにがあってもアナタの理解者・味方がいる」
というメッセージを伝えて続けていくこと、心の中にそういった
安心感を築くことの重要性が指摘されています。

これは「心の安全基地」や「セルフ・エスティーム」「自己愛」などと
いろいろな言葉で表現されていますが、そういったモノ(安心感)の
発達不全がAC(アダルトチャイルド/アダルトチルドレン)と呼ばれる
状態だとワタシは解釈しています。

相手がどんなことに大きな不安を覚えているのか。
どんな状況で、「ボク(ワタシ)を優先させて」という
駄々こねを引き起こすのか、その傾向を探ることが
最初の一歩です。

日頃から、「安心感」をフォローするような
コミュニケーションやスキンシップを心がけてみてください。
また「駄々こね」の時にも、理屈で説得しようとせずに
「その不安は理解できる(共感)」「ダイジョウブ(愛している)」
という有言無言のメッセージを送ってあげてください。
(幼児や反抗期のコドモ相手のようですが^^;
…こちら側がオトナである必要がありますね)

激変は無理かもしれませんが、少しづつ相手の心情も
変化していくように思います(個人的な実体験です)。

その方の心の状態の程度にもよりますが、シリアスな場合には
カウンセラーやパートナーのサポートを得た本人自身による
自分の「育てなおし」に効果があるようです。

7年余後の記事愛情の科学もぜひお読みください^^
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# by dryangle | 2006-11-20 16:00 | パートナーとの関係 | Comments(2)
ココロの幅寄せ体験
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引き続き、人間関係の話を少々。

意外と多いのが、その場に必要のない批判や嫌味で応じてしまうこと(人)。
誰でも、ファクターによっては同じ反応をしているかも知れません。

これは当人が、ネガティブな反応によって自分の「ささやかな自尊」を
守っていることの表れだと思います。
それを認めてしまうことで、自分が自分を責めて(劣等感を刺激して)
しまうのを、なんとか防ごうとしているのではないでしょうか?
嫉妬は自分自身をも苦しめるものですから。

このような方との「付き合い方」ですが、その批判などにウッカリ「同意」してしまうと
廻りめぐって、良好な人間関係に亀裂を及ぼしかねませんよね。
とはいえ「否定」してしまうと、センシティブなこの種の人をこれもまたウッカリ
傷つけてしまい、悪意を持たれかねません。難しい…^^;

なので、ここはあくまで「中立・自分」に徹することに気をつけるといいように
思います。具体的には「へ~そうなんだ?」「そう思ったんだ?」「なるほどね」
などなど、認めるでも否定するでもない良い具合の受け応えをいくつも用意
できるといいですよね。

ところで。

こういった人間関係のお悩みに対しての、最近の王道は
「(適当な)距離をおく」といったポイントに集約されてきています。

これが必要な場合ももちろんあるのですが、用心や疑心暗鬼のためか
最初から「距離をおく」お付き合いが普通になってきました。
それはたしかに無難ではあるのですが、それによって「親しさ・親密」を
共有するような深い交流の経験が少なくなくなってきます。

昨今言われる「人間付き合い(関係)の希薄化」ってところでしょうか?
「ウマクやっているけどちょっと孤独」という人も増えているように思います。

多少のイザコザ・ドタバタ騒ぎによって、怒りや泣き笑いを共有してこそ
互いの心は近づくものなのかも知れませんね。
心の底ではそれを求めている人が多いのでは?と時々感じたりします。

コメントを承認制にいたしました。送信してもすぐに反映されません。
よろしくご理解ください。

非公開コメントも大歓迎です!(下の Commentsをクリック)
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アナタも心のお掃除をしませんか?心の重荷処分場
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# by dryangle | 2006-10-17 19:47 | 周囲の人との関係 | Comments(0)
「ココロの幅寄せ」と「干渉」~表裏一体の危険性
人間関係はココロの交流。

これには相性という「相対性」の問題が存在します。

誰かの心に近づくアプローチと干渉の違い。
キチンと理解できていますか?

自分も相手も心の境界がオープンであり、しかも「自分の領域をきちんと守る」
ことのできる人の場合、他の人の意見などを真摯に、またさらりと軽く受けとめ
お互いに親近感を共有する楽しい関係になれるのではないでしょうか?

ところが心の境界に壁を築いている人は、それを「侵入」としてひどく嫌います。

壁の厚さは、その領域が不安定で弱いものであることの証拠です。
他人の他愛ない「自分の意見」を、「介入と」感じとることで
ひどく不愉快に、腹立たしく、そして不安になってしまうのです。

その種の言葉によって、心の中に「強制される・従わなければならない」と
いったプレッシャーを自動的に再生してしまうのではないでしょうか。

それは、その心の領域があくまで「自分の権限」である、という自信に
乏しいことだといえるような気がします。

とくに「したいこと」よりも「しなければならない(義務感)」ことを
中心に物事を考える傾向のある人、「自分だけがシアワセになっては
いけない(罪悪感)」などの気持ちが強い人は、いまだに自分の心の領域が
他人(多くの場合親のプログラムですが)に支配されており、その壁も厚い
傾向があります(親しさを「装ったりする」ので、見抜きづらいですが)。

このような人の心にウッカリ分け入ってしまうと、跳ね返されるのがオチ^^;
距離をとられたり、絶縁されてしまうこともあり得ますよね。

なので、相手の権限を最大限に尊重するような「話し方のコツ」が
必要かも知れません。

こちらが何の気なく意見を述べただけで、それ(が自分の考えと違うこと)を
非難・批判・反対と自動的に受けとる人がいます。
自分の心の領域の不安な人です。そういう方には、なるべく先に意見を言って
もらうようにし(後からだと、合わせるために本心と逆のことも言ったりします)、
それに充分共感し、受けとめた後に、こちらの意見も主張式ではなく
折り合いをつけるような話し方にする、など。

時勢を反映しているのかも知れませんが、お互いに心の壁が強固になってきて
いるような気がします。
それぞれ「自分の領域をきちんと守る」「他人の領域を支配しない」ことが
できるようになれば、ココロの交流をもっと楽めるようになると思っています。
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# by dryangle | 2006-09-20 10:33 | 周囲の人との関係 | Comments(0)
アナタの周りにもいませんか?
たとえば、誰かの成功や調子のイイ様子が話題に上った時に

「へ~ スゴイ!素晴らしいね~!」

素直に褒め言葉を言うヒトがいます。

「私には○×だから、あり得ないわ」

ちょっと言い訳めいたこと、さらには嫌味や批判を言うヒトがいます。

後ろのケースでは、その話の内容によってその人の
「自尊心」が傷つけられています。

ある種の話に対して、自分が攻撃されたという脅威を感じ
自動的に反応する「自己防衛」のカタチです。

多くの人には些細な内容が、「心が傷だらけ」の人にとっては
その傷の痛みにふれる「攻撃」だと感じてしまうようです。

そして自分の心を守るために、無意識に筋違いともいえる
攻撃を、周囲に仕掛けてしまうのです。

「自分なんて」という劣等感を表明する言葉に変わって
聞き苦しい言い訳、さらには他人の批判・悪口・罵詈雑言。

そういう人こそ他者との関係をより必要としたりします。

こういった自動的な反応をしてしまう時、その人は
「相手が自分を承認してくれるかどうか」に依存しているのです。

そのような人の心が、最小限の安定を得るためには
(その人にとっての)みんなが自分を認めてくれていることが
必要なのです。

自分で自分を肯定できないゆえに、誰かからの「肯定してもらえる」
言葉を渇望しているのでしょうね。

それを求めるパターンが、相手を「攻撃」することなのですから
大抵は叶うことなく、ますます不満を溜めていく結果になりそうです。

考えてみたら、「愚痴」も同じようなメカニズムかも知れません。

包容力のある人に共感してもらえれば、気持ちは癒されるのでしょうが
相手かまわずブチまけると…

お互いに「自己防衛」のために攻撃し合うことから、ケンカが始まります。
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# by dryangle | 2006-08-08 19:30 | 周囲の人との関係 | Comments(0)
他人に関心のない人
心の不調や問題には、いわゆる「生きづらさ」から精神疾患までのスペクトラムがあります。
こちらでは、特定の療法や理論,思想にこだわらず、心理学・精神医学・カウンセリングなど
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誰かと会話のチャンスがある時に、こちら側から積極的に自分を
アピールすることを控えて、相手の話を聞くように心がけてみます。

すると相手にこちらへの関心(質問や聞く姿勢など)が、ほぼない
ばかりか、さっさと相手側の話にすり替えられてしまうパターンの多いこと!

こちらから積極的に話そうとすれば、一応内容を聞いてはくれるのですが
それよりも「私の話を聞いて!私に関心を持って!私を評価して!」という
オーラが伝わってきて圧倒されそうになります。

グループでの会話の場合には、自分にメリットのない話が続くと
待ちきれずに不愉快そうな表情をする人も。
他人のウワサや批判には、さも関心大アリと聞き耳を立てるのに。

ワタシ(筆者)の話などには、まったく関心も興味もないご様子(^∇^)なのは
ともかく、多くの人々に「自分に関心を持って欲しい」欲求が募っている
ような印象を持ちました。その裏側となる一方で
(良い意味での)他人に対する関心がなくなってきているのではないか?
と思わせられることしきりです。

余談ですが、誰かが自分の思い出話などで懐かしんでくれるということは
「関心を持たれている」だけでなく「愛されている」「大切にされている」という
を感じることができ、一種の喜びにつながるのかも知れませんね。

ワタシにはワケあって、その種の思い出話をしてくれるような
親や親戚が皆無。

かつて主人の両親に、主人の子供時代の話をとうとうと聞かされること
(彼らには楽しみに違いないのですが)が苦痛になったことがありました。
どうしても怒りに似た感情がムクムクともたげてきてしまって。
これが自分が求めても得ることのできない親の愛情に対する嫉妬
なのだと気がつくまでに、あまり時間はかかりませんでしたが。

愛情飢餓は、負のエネルギーを生むものだとつくづく思います。
「関心を持って欲しい」は、きっと「愛されたい」「大切にされたい」ということ。

現状は求める側が異常に多いということなのでしょうか。

アドラー心理学で知られるアルフレッド・アドラーは

『他人のことに関心を持たない人は苦難の人生を歩まねばならず、
他人に対しても大きな迷惑をかける。
人間のあらゆる失敗は、そういう人達の間から生まれる。』


と述べていますが

関心を持って欲しい ≒ 愛されたい」と置き換えてみると

他人のことに関心を持たない人 ≒ 愛することをしない人

となり、妙に含蓄のある言葉に思えてくるから不思議です。

(10年後のこの記事もどうぞ→自分にしか感心のない人~自己執着~ )
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# by dryangle | 2006-08-07 19:30 | 周囲の人との関係 | Comments(2)

Illustration by ふわふわ。り