金魚迷惑

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~外側からしか見ることのできない自分を閉じ込めている檻~

人間は、これこそが自分自身だと思っているものを守ろうとして壁をめぐらす。
そしてある日、その壁の内側に閉じ込められ、出られなくなってしまうのだ。

ロバート・フィッシャー『ナイト』より
Men are not prisoners of fate, but only prisoners of their own minds.
ーFranklin D. Roosevelt
The significant problems we face cannot be solved at the same level of thinking
we were at when we created them.
-Albert Einstein


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まるで自分が乗っ取られるような思考と感情。

それによってつき動かされる自分の苦悩の構造を
内外に探してきましが、少なくとも自分のソレの
輪郭が少しはつかめてきたように感じます。

しがらみ、インナーペアレンツ、観念、トラウマ…

各種の分野にそれらしきものを表す言葉がありますが
最近ごく個人的にフィットするのが「手綱(たづな)
という言葉。

馬主は、競走馬に「ただ健康でさえいてくれたら」
とは思わない。


以前、ある掲示板で遭遇した親への批判の言葉です。
かつての子どもとして、当時は新米の母親としても
衝撃を受けた言葉でした。

その言葉が、あるキッカケで鮮明に浮かび上がった
のです。

今となっては、自分の手綱が自分自身の手中にない
いうことが苦しみの根源=自己疎外だといえるように
感じます。

その真骨頂は、今現実には特定の誰かの強制がなくても
かつて手綱を取った馭者(親や先生、世間)が、頭(心)
の中で自分の手綱を取り続ける
ということ。
さらには、追体験というフィードバックによって肥大化
していくこと。

そのコントロールの構造は家畜同様にシンプルなもので
ムチとエサによるしつけです。
実際には反応として脳内にわくホルモン、思考や感情の
条件づけ

それに背くとわき起こる、罪悪感(自責)や劣等感
恥、損することの不快感(ムチ)。
↑受け容れるのに恐怖*

自分を走らせるための、正義感や優越感、誇り、得
という快感(エサ
↑断念するのに恐怖*

ムチに打たれてばかりでは疲弊し無気力になりますし
エサを目前にして得られないと怒り暴れるでしょう。

前者をうつ状態、後者をキレる(感情爆発)として
照らし合わせるとなかなかに唸ってしまいませんか?

養育者や教育現場という単位だけではなく、それが
社会の構造なのだとさえいえるように思います。

競争(労働?)馬ではなく自身の馭者として生きる。
その際初めて目的地を自己決定できる。
(ごく個人的には「目的地がなかった」ことに気づかされました)

そのエネルギーになるのは、たんなる情報のやり取り
ではなく、心が通うというコミュニケーションによって
感じる喜び、築かれる自他への信頼感です。

それが精神の養育と呼ばれるようになって欲しいもの。

またそれまで親の手にあった子どもの手綱を、順次
本人の手に渡すことが、精神的な意味での親子離れ
だといえるように思います。
成熟した人同士が、それに代わって築いていくのが
絆(きずな)なのです。

今話題の過干渉タイプの毒親は、自分の手綱を誰かに
握られたまま子どもに頑丈な手綱*恐怖感による鍵)
をかけ、握りしめて離さないイメージがあります。

この頑丈な手綱(*怖れによる回避)を断つには今流行の
アドラー心理学的な「嫌われる勇気」が必要だといえる
のかも知れません。
まさに自分の手綱を握る勇気だといえると思います。
*心身への暴力体験によって摺り込まれる反応だと確信しています。

じつはこのような記事を書いていること自体も手綱による
人見せ行為ではないかという考えが逡巡する昨今…


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対立ではなく相互理解のために。
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by dryangle | 2018-01-24 15:03 | ココロのカラクリ | Comments(0)
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Illustration by ふわふわ。り