金魚迷惑

★☆★不定期更新★☆★


~外側からしか見ることのできない自分を閉じ込めている檻~

人間は、これこそが自分自身だと思っているものを守ろうとして壁をめぐらす。
そしてある日、その壁の内側に閉じ込められ、出られなくなってしまうのだ。

ロバート・フィッシャー『ナイト』より
Men are not prisoners of fate, but only prisoners of their own minds.
ーFranklin D. Roosevelt
The significant problems we face cannot be solved at the same level of thinking
we were at when we created them.
-Albert Einstein


気づいてみる。意識してみる。何かが変わり始める。
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見えない手綱(たづな)
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まるで自分が乗っ取られるような思考と感情。

それによってつき動かされる自分の苦悩の構造を
内外に探してきましが、少なくとも自分のソレの
輪郭が少しはつかめてきたように感じます。

しがらみ、インナーペアレンツ、観念、トラウマ…

各種の分野にそれらしきものを表す言葉がありますが
最近ごく個人的にフィットするのが「手綱(たづな)
という言葉。

馬主は、競走馬に「ただ健康でさえいてくれたら」
とは思わない。


以前、ある掲示板で遭遇した親への批判の言葉です。
かつての子どもとして、当時は新米の母親としても
衝撃を受けた言葉でした。

その言葉が、あるキッカケで鮮明に浮かび上がった
のです。

今となっては、自分の手綱が自分自身の手中にない
いうことが苦しみの根源=自己疎外だといえるように
感じます。

その真骨頂は、今現実には特定の誰かの強制がなくても
かつて手綱を取った馭者(親や先生、世間)が、頭(心)
の中で自分の手綱を取り続ける
ということ。
さらには、追体験というフィードバックによって肥大化
していくこと。

そのコントロールの構造は家畜同様にシンプルなもので
ムチとエサによるしつけです。
実際には反応として脳内にわくホルモン、思考や感情の
条件づけ

それに背くとわき起こる、罪悪感(自責)や劣等感
恥、損することの不快感(ムチ)。
↑受け容れるのに恐怖*

自分を走らせるための、正義感や優越感、誇り、得
という快感(エサ
↑断念するのに恐怖*

ムチに打たれてばかりでは疲弊し無気力になりますし
エサを目前にして得られないと怒り暴れるでしょう。

前者をうつ状態、後者をキレる(感情爆発)として
照らし合わせるとなかなかに唸ってしまいませんか?

養育者や教育現場という単位だけではなく、それが
社会の構造なのだとさえいえるように思います。

競争(労働?)馬ではなく自身の馭者として生きる。
その際初めて目的地を自己決定できる。
(ごく個人的には「目的地がなかった」ことに気づかされました)

そのエネルギーになるのは、たんなる情報のやり取り
ではなく、心が通うというコミュニケーションによって
感じる喜び、築かれる自他への信頼感です。

それが精神の養育と呼ばれるようになって欲しいもの。

またそれまで親の手にあった子どもの手綱を、順次
本人の手に渡すことが、精神的な意味での親子離れ
だといえるように思います。
成熟した人同士が、それに代わって築いていくのが
絆(きずな)なのです。

今話題の過干渉タイプの毒親は、自分の手綱を誰かに
握られたまま子どもに頑丈な手綱*恐怖感による鍵)
をかけ、握りしめて離さないイメージがあります。

この頑丈な手綱(*怖れによる回避)を断つには今流行の
アドラー心理学的な「嫌われる勇気」が必要だといえる
のかも知れません。
まさに自分の手綱を握る勇気だといえると思います。
*心身への暴力体験によって摺り込まれる反応だと確信しています。

じつはこのような記事を書いていること自体も手綱による
人見せ行為ではないかという考えが逡巡する昨今…


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# by dryangle | 2018-01-24 15:03 | ココロのカラクリ | Comments(0)
私って毒親なのかも?
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親子間で衝突が起きたり
子どもに問題行動が現れたり
子どもに非難されたり

などという問題に直面した際に
自分の内に原因を見つけ出そうとして

もしかして…
「私って毒親*なのかも知れない?」

と口にされる親御さんが時々います。

これ、なかなか客観的に認定できるものではありません。

苦悩している当事者本人(親の側でも、子の側でも)が
思い当たることによって、気持ちが解放されるかどうか

親の側が気づくことの方が、やはりハードルが高いので
そう思えるくらいであるなら、予備軍であったとしても
猛毒ではないように思います。

かなり乱暴に例えさせていただけば…

高所恐怖症の親が、それが原因で遠くを見たがる子どもを
高い所に連れて行ってあげられない。
むしろ行ったら子ども(自分?)は死んでしまうと本気で
怖れている。

高い所にいて身動きが取れない。子どもを認識できず守れない。
自分自身に高い所を無理強いして子どもの望みを忘れる。
克服して自信満々に子どもが高所に恐れを持つのをバカにする。
子どもが望まないのに高所に行かせようと無理強いする。
子どもが高い所に行きたがる、せがまれると思わず叩いてしまう。
高い所の危険性をクドクド言い聞かせて同じ恐怖症にする。
子どもにもし行ったら、親子の縁を切る、私は死ぬと脅す。
子どもに行かないでと泣き落とす。具合が悪くなる。
大人になっても、殴ってでも殺してでも行かせない。

子どもがパイロットになっても、高所は危険なのだという
正当性を主張し続ける。

ちょっとワケわかりませんが…^^;

どの辺が毒か?ってことですよね。

一番最後のレベルでも、私は毒親ではないか?と悩むこと
もできるし、自分が高所恐怖症であることすら無自覚な人
もいます。

ごく私的な意見ですが、自分の高所恐怖症を自覚した時に
解放や連鎖を断つ流れに向く
のではないでしょうか。

高所恐怖症が親に刷り込まれたものだとしても、親の贖罪
によって解放されるものではありません。
多少収まる気持ちがあるかも知れませんが。

自分の弱さが誰かの弱さを支配し、その可能性を制限したり
傷つけてしまう。
表面の問題の力による無理な直接解決や自分責めに耽るより
それがどんな恐怖(嫌悪)症か自覚することが大切です。

それらは人によって劣等感、被害(責)感、罪悪感(加害恐怖)
恥や失敗恐怖(完璧主義)、自己無価値感、見捨てられ不安
などとして埋め込まれています。

それがわく瞬間には、他者(親や世間)の感じ方が、自分に
乗り移ったり、自分が乗っ取られてしまう感覚がします。
まるで暗示や催眠術でコントロールされているような。

高所恐怖症者の高所への脳内瞬間ワープ

それを怒りや別の感情で蓋をするあまりにそのエネルギーが
蓄積されてまるで地雷のようになっていることも。

無垢な子どもに踏ませる前に、簡単に処理はできないまでも
そのありかを知ることで、なるべく踏ませないようにしたり
不発処理のできる可能性もあるはず。

気楽に生きている人でさえ、たまには他者の地雷を踏んだり
逆鱗にふれることはあります。
ところが同じ地雷を踏んだとしても無傷やかすり傷どころか
放屁くらいにしか感じない人も。

毒親育ちは地雷原に育った子ども。

満身創痍でわずかな刺激でも致命傷になることがあるのです。
そして自らも防御壁としての過敏な地雷原となり得る。

私って毒親なのかも知れない?

もしもそう思ったのならば、子どもや現実の問題に先立って
勇気を持ってご自分の痛みに目を向けてみてください。

ちなみにその痛みこそが、別の物事への依存や強迫といった
異なる種類の問題にもつながるのではないかと感じます。
支配≒独立や自由を阻む≒恐れや不安で制御するプログラム
なのだとも。

*親による負の影響について示されたバイブル的な著書、スーザン・フォワード著
「毒になる親ー一生苦しむ子供」
をもとに発展、広がった言葉。
昨今ではその構造の実態よりも、印象的な語感から個々人の感覚的によって広義に
使われているように思います。

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# by dryangle | 2017-12-15 17:43 | 子育て・教育 | Comments(0)
蔓延する「しつけのつもり」
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横綱の暴力事件の引責による引退のニュースを見ました。

その決断の是否については想う材料を持っていませんが
悪いのは「行き過ぎたこと」と「怪我をさせたこと」で
動機や行為自体について「礼儀礼節がなってないから」
「先輩としての義務として叱った」と正当化される発言
には失望しました。

それはいつもながらの「しつけのためにやった」理論
それがどこか容認される文化背景に対してです。

「ついカッとして」「怒りをコントロールできずに」と
正直に語ることの方が、どれほど人々の潜在的な痛みの
共感を得て問題提起となることか、ひいては社会貢献
できることかと残念でなりません。

上下の立場関係で力による支配が肯定されてしまう。

人種や民族差別と同様に、立場や役割差別が伝統として
根づいていることに気づかなくてはならないと思います。

いつもながら確信するのは、力で屈服させられることで
動機づけ、刷り込まれたあり方
に背くことは、自分であれ
他人であれ、条件反応的な許せなさ、怒りの感情(時に
爆発発作)を起こす心の地雷となるということです。

それは埋め込まれた苦痛と怒りと屈辱だから。

この地雷の爆発案件は、立場という優位性を得ることで
権威のある側の正当化とともになりたってきました。
(組織や集団の中にあっては「誰の領域の問題か?」を
複雑にしたりウヤムヤにしてしまう背景も)

それが文字通り踏めば、自分も他人も、大きな傷を負う
地雷を撤去するのではなく、あらたなる地雷を埋め込む
ことを繰り返す原因になってきたのです。

礼儀礼節はその美徳に好感を持つことで、自発に他者を
敬い礼を尽くすことであって、他者に力で圧しつけられた
それには醜悪を感じることすら禁じ得ません。

奇しくも同じ日のニュースとなった少女らの女子高生への
暴行事件の動機が、「礼儀を知らないのでやった」という
符合が皮肉にも感じられます。

関連するこちらの過去記事もぜひ。

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# by dryangle | 2017-11-30 12:54 | ココロと社会 | Comments(0)
軸(じく)の話
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「他人軸」や「自分軸」
心についての話の中で、この頃よく使われるキーワードです。

「他人軸」でいる人は
・他人との比較を自分がどうあるかの基準にする
・他人の評価(どう思われるか、どう見られるかなど)を
 気にする、気になる
・NOと言えない

意識の上では、もちろん自分の本心との対話を心がけていますし
自分に正直に率直な選択ができていると思っていました。

「自分軸」を大切にしようと。

自分自身も理解しているつもりで、この言葉を使っていましたが
本当の意味で「気づく」というのは、ベツモノだと痛感しました。

なぜなら

自分の心の中の他人軸(他人から視線)に気づき始めたらなんと
今なおそれがデフォルトなのだと思い知ったからです。

新しいアクティビティを決める時など、なにかにつけて
その時々それぞれ別の人々(私の場合)をイメージの中に浮かべ

その人の反応を想像し
その人に説明する言葉を探す

まるでその人がそこにいるような予行演習を、頭の中で自動的に
イメージ
していたのです。

ええ

誰かのプレゼントを選ぶ際にそれを開けた瞬間のその人の反応と
自分が話すやり取りを想像するように…

逐次そのようにして、成り行きやそれにより起こる感情を基準に
自分にGOやダメを出していたのです。
また事後にも頭の中で再生して、チェックすることもしばしば。

なによりもショックなのは、物心ついた頃から当たり前というか
当然のチェック作業として不思議だとも思っていなかった!

私の場合、多くの場合に登場する人物は重要だった他者。
親はもちろん、長い付き合いの友人や憧れている知人。
(これが全ての不特定他者の場合は対人緊張と言えるかも)

しかも、悪いシチュエーションばかりではないのです。

そして粉飾やウソはないにしても、つい見栄えよく、聞こえよく
体裁よく、演出しようとしている
ことに気がついてしまった。
そのせいか、なんとなく言いたくないことがあるということも。
些細な意思決定にさえ、気づくと誰か向けの説明を準備している。

今さらながら…他者前提に添って自分を作っていたのですよね。

141.png141.png141.png

自分の中で気がつかずに、自分の心を縛り負担になっている

「他人軸」コエー!!!!

無人島にいるかのようなありのままの自分でいるのは無理としても
自動的に他者の想像上の反応を基準にしてしまわないように。
他人(ひと)見せ用のみの自分になってしまわないように。

…そんなことを思ったのでした。自覚って大切。
※あくまで個人の感想です(笑)

余談ですが、日本のテレビや雑誌などで「みんなはどう思う?」
「みんなはどうしてる?」という切り口を、やたら目にすると
「みんなって誰なのよ?」とツッコミたくなります^_^;
誰の視点か、誰の考え方・感覚・感情なのかをはっきりと区別
することは大切だと感じます。

それぞれの存在を尊重するために。

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# by dryangle | 2017-11-09 16:03 | ココロのカラクリ | Comments(0)
「恥」という自己攻撃プログラム
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アナタはどんな時に「恥ずかしい」と感じますか?

それはとても不快な気持ちですよね。
恥が本来は美徳であったということを考えてみると
それは社会の正義や自分の信念に背いた時に起こる
気持ちだったのではないか?と想像します。

西洋の「罪」に似た感覚でしょうか。

恥という文字の意味は、もともと「自らのあり方の
足らないことを省みる心」、「大いなるものに対し
己の卑小さを知ること」だそうです。

己の徳を積むための視点であったようにも思います。

それが、いつのまにやら「辱め(られ)る」という
攻撃的な言葉への連想によって劣等感を刺激される
からか、自分を守るために
他者や社会への価値観に
沿わない自分を見張り、背くと責める心理的な構造
になっていったのかも知れません。

さらには自らの感覚を(我が子など)相手に刷り込む
ために利用されるようになったから…

「○○だったら、恥ずかしいでしょ?」

こんな言葉による洗脳を受けて、他人(軸)の感覚
を優先
してきた方も多いのではないでしょうか?

自分の側を矯正(強制)するために、自分を否定し
卑下し、嫌悪するという、自己の体面を守るために
内面では自分自身が自分を攻撃するという苦しみ
のプログラム


この時代には異文化に触れることで、目からそんな
ウロコが落ちる経験をすることも多いかと思います。

ウロコを落とすキッカケにできる人、自分の感覚が
抵抗して
相手の文化を否定・非難・侮辱するという人。
反対に劣等感を抱くことで過剰適応しようとする人。
さまざまなパターンを目にしてきました。

この話題を思いついたキッカケはたまたま目にした

おそばをすする音は恥ずかしいのか?

というニュースからですが、音や匂いの感覚の違い
が恥どころか、もはやハラスメントとして取り上げ
られている風潮に首をかしげてしまいました。

これは善悪の問題ではなく、感覚の問題なのですが
どちらかを是として相手を改めようとする独善的な
パワー
やムーブメントのほうがハラスメントでは?
と感じるのは私だけでしょうか?

それを苦痛だと感じる人への気配りという思いやる
気持ちから、互いを配慮することこそ美徳といえる
ように思います。

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# by dryangle | 2017-10-27 14:20 | ココロと社会 | Comments(0)
AC ~ラベルではなく道しるべに~
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AC(アダルトチャイルド・アダルトチルドレン)
これまで幾度となくふれてきた言葉ではありますが、あらためて。

とあるカウンセリング系(?)のブログの記事で見かけた内容に
ACとは「親の機嫌をとりたい子どものことで、ごく普通のこと」
だとありました。

端的にはまさにその通りだと、また「ACを自分のアイデンティティに
してしまわないように
」というその主旨には率直に同感しました。

ただACを自覚する人の心を軽くするためには、あともう少し説明が
必要かとも考えました。

親だけでなく世間の人に一般化して、自分の存在の承認を得るため
その機嫌をとらざるを得ない子どもの気持ちのまま
に成長した人



子どもにとっては、家族が世界のすべてなのだ。
親に愛されなければ、死ぬしかない。
だから子ども達は全力で親に愛されようとする。
その時とった命がけの戦略がそのまま性格形成につながっていく。
(アルフレッド・アドラー)


この子どもの気持ちが、親(他者)と共に在ることを喜び
リラックし楽しむという経験を積まず、実感として満たされず
愛されている(生きていける)という安心感を得ないまま
もしくは、そのために厳しい条件を課された人が

大人になってなお、他者(実在の親や世間一般の人)の物の見方
で自分を評価し、他者の承認を求め自分(の軸)を生きられない
苦しみ
のあり方
を抱えている状態です。

その苦しみは、誰かを喜ばせることに自分の意欲や喜びがあると
いうのではなく不快な記憶の再生による恐れから誰かを不機嫌に
させたくない
という強迫にあります。

当然ですが、対象が気まぐれで一貫性のない親や世間一般の人と
なるとコントロールは不可能なわけで、そのショックやパニック
怒りや悲しみなどが蓄積しその限度を超えると感情を封じ込める
鬱状態になったり、不安感情や怒りの発作的爆発を起こすように
なったり、その回避行動に依存するようになったり
します。

だからこそ

信じることや大前提を自己決定することで
自分という存在には理由なしに価値があると決め
他人ではなく、自分の機嫌をとり
自分の好きなように、したいことをしようよ
それに慣れていこうよ
たとえ他者に嫌われたとしても

という流れとなるわけなのですが…

(自由な自己への)否定とそれを変えることに際しても
嫌悪感や恐れの壁が立ちはだかります


他者主体の理屈や道義を盾にした激しい否定や抵抗感
恐怖感
あるいは無力感として。
人によって具体的には、ラクする、好きにする、消費する、黙っておく
得する、ウソをつく、管理しない、など(もしくはそれらの逆)のこと
への抵抗感や拒絶感、絶望感、罪悪感、無力感として感じられます。

誰かを不機嫌にすること、誰かから嫌われ、蔑まれ、落胆され
相手にされず、見切られることが、ともすれば死ぬほど(より?)
恐ろしい。

ココを見定めて乗り越えて行くことが、最初にして最大の
難所
なのです。

それが幻想(自分の心の内在プログラムに過ぎないの)だと
幻想である証拠を見つけていくという視点を持つことが重要

なのだと、しっかり見抜いて見定める

そのためにも

ACという概念を、自分や他人に貼る負のラベルとしてではなく
理解することで乗り越えるための地図や、道しるべとして使う
ためのものにして
欲しいと願わずにはいられません。

ひたすらに。

余談ですが、思いやりも、正義も、美徳も、ルールも、秩序も倫理も
強迫ではなく人の理想という主体性によってあるもの。
主体性にあっては客体の善の不在には、反応的な怒りや批判ではなく
互いへの慈悲がわくのみなのです。


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# by dryangle | 2017-09-26 14:03 | ココロと社会 | Comments(0)
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今さらながらの話題ではありますが「(自分の)心と向き合う」。
そのために、具体的にはどんなことをしていますか?

ふと思ったのですが、多くの場合には「考え事をしている」のでは
ないでしょうか?

この考え事も、過去の記憶や今後の成り行きを想起(イメージ)
してみて、その因果関係を常識やモラル・論理的に善悪で判断し
その表現や銘記、伝達のために言葉にしようとしてみたり

それ、心というより頭の作業ですよね。

心は「そう思った」と言葉で表現される
以前に流動し、感じられるもの

頭の中であれこれ考えを巡らせている時に、BGMのように奥底に
流れる感情
というかムードというか、意識してみると身体のある
部分が緊張したり、重かったり、痛みにも似た感覚に気づくかと
思います(もちろん反対に心地いいものもありますが、ここでは
ネガティブなものに限定します)。

そこを確かめるように、それに浸りきってから

悲しかった。
不安だった。
怖かった。
寂しかった。
アタマにきた。
イライラした。
焦った。

言葉(頭)に説明をさせてあげてください。

心の中に消化できない想いがあると、それを表出させるために
キッカケとなる現在や過去のエピソードをひっぱってきます

現在の出来事(問題)は、たんなるトリガーに過ぎない場合も。

ヘンな言い方ですが、出てきた説明に納得がいくと心はスッキリ
します。逆に頭(概念や言葉)で無理やり納得させようとすると
一時は引っ込むこともありますが、トリガーを見つけては何度も
出てこようと繰り返す
ことになります。

劣等感や罪悪感・被害意識は、そのようにして馴染んでしまった
(癖になってしまった)感じ方と考え方のコンビネーションです。
まさに恐れ(幻想)のプログラムといえるものです。

言葉や考え方が概念や一般論となって、自分の本心をさしおいて
台頭してしまっている
状態です。

なので、自分の心と向き合おうとする時には「言葉や考え」には
まず脇に寄ってもらって(どうしようかと「考える」その前に)
不快・不安・不要・不明瞭といった「気持ち(感情やムード)」
にフォーカスしてあげてください。

それを表現(説明)できる言葉を見つけ、心が納得がいくことで
スッキリ消化できるかと思います。

お母さんが幼い子の気持ちを汲み、代弁してあげることによって
その子がスッキリし、安心するように。
その上で心地良くあるために、心に素敵な言葉や明るい考え方を
持たせてあげてください。
感謝や謝罪の言葉など、それが支配や従順の道具として使って(使わされて)きた人には
逆効果になることも。あくまで「心の在り方を基準」にしてくださいね。

心自らは赤ちゃんのまま言葉を持たないピュアな存在なのです。
うまく笑顔にするコツをつかんでみてはどうでしょうか?

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# by dryangle | 2017-09-20 15:38 | ココロのカラクリ | Comments(0)
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これまでの経験や情報から、心の不調(慢性的な陰鬱さ、怖れや
不安の発作、怒りの感情爆発など)、なにかにふれてわき上がる
罪悪感・劣等感・被害(被責)意識≒損失恐怖?などといった
感情的な苦痛を引き起こす意識から、とっさに逃げようとする
反射的な防御反応が常態化しているということではないか?と
考えるようになりました。

その中でも、とくに罪悪感について。

古今東西、明らかな罪を犯すまでもない人を苦しめてきたものは
他の人の不幸や不運、不機嫌を目の当たりにして、自分の責任や
後めたさを感じさせられる無実の罪悪感です。

その根源は親に認められたいという成長過程に当たり前の欲求が
叶えられない、つまり親の期待や要求に応えられない際に覚えた
依存心が脅かされる苦悩(「見捨てられ不安」という言葉も)。
さらにはこれに親の不機嫌や衝動的な暴力、執拗なハラスメント
といった(身体や精神への)攻撃性のある罰が加わることにより
その贖罪としての感情=罪悪感が強化されて植えつけられます

賞罰は他者を容易にコントロールできるので、ルール・決まりや
礼節の行為の部分だけを守らせるためのしつけや教育に使われる
こともよくあること(癇癪・発散や支配のための手段としても)。
そのために挨拶や高齢者への親切さえも、純粋な思いやりによる
気遣いではなく贖罪プログラムによって(誰かの不機嫌を怖れる)
罪悪感、実際の感覚では漠然とした後ろめたさから、行うように
なってしまうのです。
余談ですが(褒賞による)獲得プログラムによっては、功名を得る快感を動機に
行うようになりがちです。


そのあるなしを比べてみると、たとえばジャンクフード(漫画、
ゲームなど)をたんに家で食べて(常用して)こなかった人は
成長し自ら行動できるようになった後は、機会や興味があれば
もちろん食べてみることもするでしょうが、基本的には望んで
健康的な食習慣を続けていくようです。

一方、親の不機嫌や叱咤などによりそれを一切禁じられてきた
人は、望んでも口にする(それを行う)ことに、抵抗、拒否感、
怖れ=罪悪感が付きまといます。
いわば不快な感情によってそれらを寄せつけないようになって
いるのです(多くはそこに後づけの正当な理由をこじつけて)。
またそれを覚えたら、かえって強く求めるようになってしまう傾向もあります。

もともとは親の否定的な反応で出来上がった観念、いわば結界。

一般的にごく常識的なものから、他者には想像もつかないもの
までその善悪正邪はじつは多種多様です。

親と心の距離を置き適当にあしらう。他人の不機嫌を気にしない。
浪費する。グダグダ怠惰に過ごす。バカ喰いする。
バカ喜び、お祭り騒ぎをする。爆食いする。
エッチなことを考える。自分の好きなことをする。
周囲の意見に耳を貸さない。信仰や信念、戒律を持たない。
年長者にタメ口で話す。
他人に助けてもらう、迷惑をかける。借金をする。
働かない。自分だけが幸せになる。有閑マダムになる(笑)

そこに罪悪感を感じて、それを自分に許せない人がいる。

想像してみてください。
そこに罪悪感を感じない人がいることを。

許せますか?後ろめたくはないですか?
モヤモヤ、ザワザワ、イラっとしませんか?
私はいまだに自分に楽しみや遊びを許し難く、家族がレジャーの提案を
すると、なぜか反射的にイラッ!とします^^;


これまでの人生で、ずっと当たり前に馴染んできた感覚なので
そのモヤモヤや苦しみが限界に達するまでは、わざわざ疑問に
思わぬまま自分に不快感を与え続けます。

けれど、その負荷に耐えきれず下手をするといつか強制終了
なりかねません。精神や人間関係の崩壊につながるのです。
もしくは次の誰かに同じようなプログラムを植えつけ、自分の
要求や期待に応え奉仕してもらう側に転身することになるか…
なぜ自分の苦しみを相手に背負わせるのか?ふと昔の嫁姑問題がアタマをよぎりました。

そのような負の連鎖を断ち切るために、そこから自分と大切な
誰かを解き放つために、これまでの自分の感覚や常識、世界観
にはない、当たり前でない、信じられない(それはきっと自分
にとって嬉しい、ラクな、楽しい、したい)が当たり前の前提
や感覚を選ぶ勇気を持ってみませんか?

とはいえ。

そのためには、モヤモヤ、ザワザワ、イラっ、メンドクサイを
乗り越えていく意識と覚悟が必要です。

その最初のステップが誰かに植えつけられた贖罪プログラムに
気づくこと
それがあるんだとに気づいている(外在化する)こと。

そうして自分の中で再設定・無効化すれば、贖罪のための負の
感情(苦しみ)からとっさに逃げる(感情の硬直、発作や爆発の)
必要がなくなる
のです。

サーカスの象*が鎖を解いて自由になる。
それは自分の絶対無罪を自らが選びとることに他なりません。

*サーカスの象は力の弱い小さな頃から鎖をつけられている。逃げようと暴れるほどに
鎖は足に食い込み、その痛みに耐えきれず逃げることをあきらめる。そのようにして
「逃げることは無理」だという観念が備わってしまったために、成長して鎖を壊す力を
得ても逃げようとはしない。学習性無気力の例え話として心理学ではよく使われる寓話。


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# by dryangle | 2017-08-11 13:53 | ココロのカラクリ | Comments(0)
二重拘束の女王
こちらでは、特定の療法や理論,思想にこだわらず、心理学・精神医学・カウンセリングなど
多分野から
心の癒しとメンテナンスに役立ちそうな話題を集めています。
悩みや苦しみの対象を操作しようとするのではなく、自分の感じ方・考え方・反応の仕方を見つめ
問題(とすること)から解放されることで、心の安定を得ることが基本のスタンスです。
初めていらした方へ…dryangleとブログ金魚迷惑について
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ちょっと意味アリゲなタイトルにしてみました。

生きていくこと、その基盤となるファクターがいくつもあります。
衣・食・住、それを支えるための健康、学び、仕事、お金、時間。
それらに関して些細なパターンにもネガティブで感情的な反応
自覚することがあります。

不安、恐れ、義務感、罪悪感、嫌悪感、怒り、許せなさといえる
抵抗です。「気にかかる」という意味では、執着という言葉にも
言い換えられるように思います。

それらのしつこい負のマインドセット(観念、価値観、思い込み)
の大元はどのようにして作られたのか?

意識的・概念的なレベルではなく、さらに深い部分に、いわゆる
深層というエリアにどう植え込まれたのか?

やはり思い出すのは親や養育者との生活全般に起こるエピソード。

気になってしまうのは、ベイトソン*ダブルバインド理論。

メッセージとメタメッセージが矛盾するコミュニケーション状況
(に置かれると、統合失調症に似た症状を示すようになるという
理論)が思い当たるようで強い関心があります。

ある場面において、言葉と表情、言葉と行為、表情と行為といった
異なる階層によって表現される矛盾したメッセージ。

私的解釈ですが、建て前と本音の矛盾を同時に表すような態度

その瞬間は、当然ですが認識の混乱による思考停止が起こります。
繰り返されることによって、メタの部分の否定的なメッセージと
そこから逃げ出してはいけないという観念を得ることになります。

例えば。幼い頃に他の大人がお菓子(おこづかい)をくれようと
した時、母親はその場では「良かったね」とニコニコしながらも
私には「受け取るなよ(言葉には出さない)」と鋭く睨みつける。
そして受け取ろうものなら、あとからネチネチと叱られます。

その姉である未婚の伯母はなにかをくれる時、ニコニコしながら
私の肘をギュッとつねり「いいか?言うことを聞けよ」と言う。
(こちらが成長してくると、お祝いなどをくれる際には具体的に
「年取ったら面倒を見てよ」と。成人後もつねられました^^;)

誰かを慇懃に褒めながら「すごいね~!(お前はどうだ?)」と
目配せをしてくる。

一事が万事、それが常態。

今思い当たるのは、ある種の洗脳技法のようであるということ。
つまりはしつけ

ストレートな折檻はもとより、これらによって埋め込まれたもの
の影響も無視できないと思います。

喜びや楽しみ、女性らしさや美しさ、立派な仕事、お金を得ること
使うことなどに不合理な抵抗感(前述の不安や罪悪感、嫌悪感)が
わくことで、無意識にそれらを遠ざけてしまっていました。

この家系に不幸な出来事が絶えなかったのは、決して偶然ではない
と今では確信しています。

もっとも、もとは謙遜や婉曲の文化として根づいた

・本音と建て前
・あなたのためだから
・誰々(みんな)がそう言っている
・ほかの人が迷惑する
・ウチの子なんて
・「ぶぶ漬けでもどうどす?」

といった類のコミュニケーションパターンが、他者コントロールや
しつけの手段として転用・誤用・悪用されている気がしてなりません。

ごく個人的な実感として、このようなコミュニケーションパターンを
使いがちなのは女性、つまり母親の方が多いように思います。

ハラスメントより見えづらい他者支配・コントロールの手段です。

*グレゴリー・ベイトソン(1904-1980)
 アメリカの文化人類学、精神医学などの研究者

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# by dryangle | 2017-07-25 15:16 | 親子の関係 | Comments(0)
自責プログラムの反転攻勢
こちらでは、特定の療法や理論,思想にこだわらず、心理学・精神医学・カウンセリングなど
多分野から
心の癒しとメンテナンスに役立ちそうな話題を集めています。
悩みや苦しみの対象を操作しようとするのではなく、自分の感じ方・考え方・反応の仕方を見つめ
問題(とすること)から解放されることで、心の安定を得ることが基本のスタンスです。
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●過去記事のタイトル別一覧●


ネットのニュースなどでホットな話題となっている国会議員の女性の
音声や某女優の映像にふれると…あわやフラッシュバックを起こして
しまうようなトラウマを抱えているのは、けっして自分だけではない
と今は確信しています。

経験のある当事者なら実感のあることだと思いますが「あの状態」に
ある人というのは、なにかに憑りつかれたような発作状態にあります。

可能なら少し冷静に見つめてみると、視線がこちらをすり抜けている
目の色を失っているといった独特な様子に気づくと思います。
暗示や催眠の力が働いているような、脳のある機能の麻痺やホルモン
の過剰分泌による興奮状態にあるような?

感情発作のケミカルなメカニズムは、明らかになっていくでしょうが
それ以前の思考のパターンや(罪悪感、劣等感、被害意識)といった
動機として嫌悪感情をセットされた自責プログラム(強迫観念の構築)
の存在が、ここにもやはりあるのではないかと痛感します。

本来内向きの自己監視プログラムがなにかのキッカケにより過電流で
ショートしたかのように、支配やコントロール可能な他者に向かって
怒りや憎悪、恨み辛みを発散する
最初は単純に自己防衛的な反応と考えて
いましたが、もしかして複製プログラムの起動なのではないか?と考えたりもします。
相手は非言語的な、思考や感情を征服されるような圧迫を受けます
)。

いわば自責プログラムの反転他者攻勢

いうまでもなく、女性に限ったことではありません。
女性のそれはかつて(今も?)「ヒステリー」として片づけられ
男性の方はむしろよくあるパターン(昭和のオヤジなど)として
理由を正当化され、容認しがちであったように感じます。

具体的な内容はそれぞれでしょうが、つねにその心の内側では慢性的
かつ強迫的に(罪悪感、劣等感、被害意識などによって)自分自身を
突き上げ続けてきた
のだと想像すると、その言動を擁護するつもりは
ありませんが本人も地獄に住んでいるに違いないと哀れに思います。

表面の言動への注目や批判ばかりではなく、その奥底や背景の理由を
理解することが必要なのではないでしょうか?

あの状態が、当事者や関係者の枠を越えて多くのまともな人々の目に
れるようになった絶好の機会だともいえるのですから。

まるで反射・自動的に、他者への不寛容さや「許せなさ」がフツフツとわき起こる
あのカンジも同様の心の働きだと思います。


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# by dryangle | 2017-07-11 13:47 | ココロの不調 | Comments(0)

Illustration by ふわふわ。り