金魚迷惑

★☆★不定期更新★☆★


~外側からしか見ることのできない自分を閉じ込めている檻~

人間は、これこそが自分自身だと思っているものを守ろうとして壁をめぐらす。
そしてある日、その壁の内側に閉じ込められ、出られなくなってしまうのだ。

ロバート・フィッシャー『ナイト』より
Men are not prisoners of fate, but only prisoners of their own minds.
ーFranklin D. Roosevelt
The significant problems we face cannot be solved at the same level of thinking
we were at when we created them.
-Albert Einstein


気づいてみる。意識してみる。何かが変わり始める。
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"自分"に疲れていません?
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カテゴリ:ココロのカラクリ( 130 )

その先へ
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悩みや苦しみの対象を操作しようとするのではなく、自分の感じ方・考え方・反応の仕方を見つめ
問題(とすること)から解放されることで、心の安定を得ることが基本のスタンスです。
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心境の変化というか、心境を脱してしまったというのか
しばらくご無沙汰してしまいました。

欲というよりも恐れに苦しみ
我儘よりも他人の軸で生きることに苦しみ

長く救いを模索してきましたが
どうにも受けとめきれない喪失体験の痛みと
作意によらない無為の癒しを経験して

欲も恐れも
他人軸も自分軸も

同質のもの。
すべてひっくるめて我執。

そんなことに気づきました。

さらに外側にいかないと。

禅の思想のようですが

まず自我がなければそれを捨て去ることはできない
そういうことだったのだと
なにかが納得しているカンジです。

自分を中心から外す
というか、もともとが辺縁だった。

もうしばらくすれば
マシな言葉にできるかとも思います。

その時はまたお付き合いください^_^

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by dryangle | 2018-05-26 10:23 | ココロのカラクリ | Comments(0)
人生というドラマ、自分という役柄
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この種の切り口の話は、人によってはとても受け容れ難いですし
私自身も前は強い抵抗がありました。

ところが。

その「次元の外側」を知ると、どうしても言葉にしたくなります。

自分自身や世界に対する「自分の」観念やイメージは、完全に個々
オリジナルで「自分だけの」世界です。
いわば「自分」専門チャンネルのドラマ世界。

夢中になっているうちは、他にさまざまなチャンネルがあることを
なかなか知り得ません。

とくに不幸や苦労、残酷のドラマって不思議な魅力があるのです。
それは刺激の強いドラマであり、強烈に自分の存在感を得ることが
できる
からかも知れません。

典型的な役柄(ロールモデル)として、交流分析の概念を借りれば
加害者(支配者)・被害者(犠牲者)・救援者(支持者)
を演じていることが特徴的です。

ちなみに交流分析では、その人が生活時間をどのように過ごすか?
という割合を「時間の構造化」として測定しますが、その区分には

ストローク(存在を認めるコミットメント)の低い順に
引きこもり・儀式・活動・雑談・心理ゲーム・親交

という種類があり、上のロールモデルはおもに心理ゲームに使われる
とされています。


「悲劇の主人公、私は可哀想(被害者)」
「可哀想なあの人を助けなければ(救援者)」
「私は無能、醜い、理解されない、ドーセ(被害者)」
「誰かを自分の持ち駒にしていたい(支配者)」
「自分は悪者、反逆者、ヴィライン(加害者)」
「あの人を、組織や世間を喜ばせたい、守りたい(支持者)」
「あの人が酷い、許せない、頑張ってるのに、尽くしてるのに(犠牲者)」
「あの人は弱い狡い汚い、正したい、懲らしめたい(支配者)」
「私の運命、このドラマから抜け出せない(犠牲者)」

流動的で複合している場合もほとんどですが、中毒性があるというのか
それ自体がもう依存症じゃないかというくらい。
その自己像に自分の存在感を依存しているかのようです。

その役柄を降りるとなると抵抗が起こりますが、それらを俯瞰する
意識を持つことでドラマに巻き込まれにくくはなります。
恐れや抵抗をあるものとして、敢えて別の選択肢を模索してみる。
それがチャンネル変更のスィッチを得ることです。

人生って自己イメージを描くもの。

本来は自由で多様なのですが、どうしてもドラマの中に産み落とされ
「受け継いだ」デフォルトがあります。
最後までそのドラマを見続けることに、いよいよウンザリしたのなら
描き換えのチャンスなのではないかと思うのです。


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by dryangle | 2018-03-07 17:34 | ココロのカラクリ | Comments(0)
見えない手綱(たづな)
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まるで自分が乗っ取られるような思考と感情。

それによってつき動かされる自分の苦悩の構造を
内外に探してきましが、少なくとも自分のソレの
輪郭が少しはつかめてきたように感じます。

しがらみ、インナーペアレンツ、観念、トラウマ…

各種の分野にそれらしきものを表す言葉がありますが
最近ごく個人的にフィットするのが「手綱(たづな)
という言葉。

馬主は、競走馬に「ただ健康でさえいてくれたら」
とは思わない。


以前、ある掲示板で遭遇した親への批判の言葉です。
かつての子どもとして、当時は新米の母親としても
衝撃を受けた言葉でした。

その言葉が、あるキッカケで鮮明に浮かび上がった
のです。

今となっては、自分の手綱が自分自身の手中にない
いうことが苦しみの根源=自己疎外だといえるように
感じます。

その真骨頂は、今現実には特定の誰かの強制がなくても
かつて手綱を取った馭者(親や先生、世間)が、頭(心)
の中で自分の手綱を取り続ける
ということ。
さらには、追体験というフィードバックによって肥大化
していくこと。

そのコントロールの構造は家畜同様にシンプルなもので
ムチとエサによるしつけです。
実際には反応として脳内にわくホルモン、思考や感情の
条件づけ

それに背くとわき起こる、罪悪感(自責)や劣等感
恥、損することの不快感(ムチ)。
↑受け容れるのに恐怖*

自分を走らせるための、正義感や優越感、誇り、得
という快感(エサ
↑断念するのに恐怖*

ムチに打たれてばかりでは疲弊し無気力になりますし
エサを目前にして得られないと怒り暴れるでしょう。

前者をうつ状態、後者をキレる(感情爆発)として
照らし合わせるとなかなかに唸ってしまいませんか?

養育者や教育現場という単位だけではなく、それが
社会の構造なのだとさえいえるように思います。

競争(労働?)馬ではなく自身の馭者として生きる。
その際初めて目的地を自己決定できる。
(ごく個人的には「目的地がなかった」ことに気づかされました)

そのエネルギーになるのは、たんなる情報のやり取り
ではなく、心が通うというコミュニケーションによって
感じる喜び、築かれる自他への信頼感です。

それが精神の養育と呼ばれるようになって欲しいもの。

またそれまで親の手にあった子どもの手綱を、順次
本人の手に渡すことが、精神的な意味での親子離れ
だといえるように思います。
成熟した人同士が、それに代わって築いていくのが
絆(きずな)なのです。

今話題の過干渉タイプの毒親は、自分の手綱を誰かに
握られたまま子どもに頑丈な手綱*恐怖感による鍵)
をかけ、握りしめて離さないイメージがあります。

この頑丈な手綱(*怖れによる回避)を断つには今流行の
アドラー心理学的な「嫌われる勇気」が必要だといえる
のかも知れません。
まさに自分の手綱を握る勇気だといえると思います。
*心身への暴力体験によって摺り込まれる反応だと確信しています。

じつはこのような記事を書いていること自体も手綱による
人見せ行為ではないかという考えが逡巡する昨今…


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by dryangle | 2018-01-24 15:03 | ココロのカラクリ | Comments(0)
軸(じく)の話
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「他人軸」や「自分軸」
心についての話の中で、この頃よく使われるキーワードです。

「他人軸」でいる人は
・他人との比較を自分がどうあるかの基準にする
・他人の評価(どう思われるか、どう見られるかなど)を
 気にする、気になる
・NOと言えない

意識の上では、もちろん自分の本心との対話を心がけていますし
自分に正直に率直な選択ができていると思っていました。

「自分軸」を大切にしようと。

自分自身も理解しているつもりで、この言葉を使っていましたが
本当の意味で「気づく」というのは、ベツモノだと痛感しました。

なぜなら

自分の心の中の他人軸(他人から視線)に気づき始めたらなんと
今なおそれがデフォルトなのだと思い知ったからです。

新しいアクティビティを決める時など、なにかにつけて
その時々それぞれ別の人々(私の場合)をイメージの中に浮かべ

その人の反応を想像し
その人に説明する言葉を探す

まるでその人がそこにいるような予行演習を、頭の中で自動的に
イメージ
していたのです。

ええ

誰かのプレゼントを選ぶ際にそれを開けた瞬間のその人の反応と
自分が話すやり取りを想像するように…

逐次そのようにして、成り行きやそれにより起こる感情を基準に
自分にGOやダメを出していたのです。
また事後にも頭の中で再生して、チェックすることもしばしば。

なによりもショックなのは、物心ついた頃から当たり前というか
当然のチェック作業として不思議だとも思っていなかった!

私の場合、多くの場合に登場する人物は重要だった他者。
親はもちろん、長い付き合いの友人や憧れている知人。
(これが全ての不特定他者の場合は対人緊張と言えるかも)

しかも、悪いシチュエーションばかりではないのです。

そして粉飾やウソはないにしても、つい見栄えよく、聞こえよく
体裁よく、演出しようとしている
ことに気がついてしまった。
そのせいか、なんとなく言いたくないことがあるということも。
些細な意思決定にさえ、気づくと誰か向けの説明を準備している。

今さらながら…他者前提に添って自分を作っていたのですよね。

141.png141.png141.png

自分の中で気がつかずに、自分の心を縛り負担になっている

「他人軸」コエー!!!!

無人島にいるかのようなありのままの自分でいるのは無理としても
自動的に他者の想像上の反応を基準にしてしまわないように。
他人(ひと)見せ用のみの自分になってしまわないように。

…そんなことを思ったのでした。自覚って大切。
※あくまで個人の感想です(笑)

余談ですが、日本のテレビや雑誌などで「みんなはどう思う?」
「みんなはどうしてる?」という切り口を、やたら目にすると
「みんなって誰なのよ?」とツッコミたくなります^_^;
誰の視点か、誰の考え方・感覚・感情なのかをはっきりと区別
することは大切だと感じます。

それぞれの存在を尊重するために。

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by dryangle | 2017-11-09 16:03 | ココロのカラクリ | Comments(0)
心は言葉を持たない。
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今さらながらの話題ではありますが「(自分の)心と向き合う」。
そのために、具体的にはどんなことをしていますか?

ふと思ったのですが、多くの場合には「考え事をしている」のでは
ないでしょうか?

この考え事も、過去の記憶や今後の成り行きを想起(イメージ)
してみて、その因果関係を常識やモラル・論理的に善悪で判断し
その表現や銘記、伝達のために言葉にしようとしてみたり

それ、心というより頭の作業ですよね。

心は「そう思った」と言葉で表現される
以前に流動し、感じられるもの

頭の中であれこれ考えを巡らせている時に、BGMのように奥底に
流れる感情
というかムードというか、意識してみると身体のある
部分が緊張したり、重かったり、痛みにも似た感覚に気づくかと
思います(もちろん反対に心地いいものもありますが、ここでは
ネガティブなものに限定します)。

そこを確かめるように、それに浸りきってから

悲しかった。
不安だった。
怖かった。
寂しかった。
アタマにきた。
イライラした。
焦った。

言葉(頭)に説明をさせてあげてください。

心の中に消化できない想いがあると、それを表出させるために
キッカケとなる現在や過去のエピソードをひっぱってきます

現在の出来事(問題)は、たんなるトリガーに過ぎない場合も。

ヘンな言い方ですが、出てきた説明に納得がいくと心はスッキリ
します。逆に頭(概念や言葉)で無理やり納得させようとすると
一時は引っ込むこともありますが、トリガーを見つけては何度も
出てこようと繰り返す
ことになります。

劣等感や罪悪感・被害意識は、そのようにして馴染んでしまった
(癖になってしまった)感じ方と考え方のコンビネーションです。
まさに恐れ(幻想)のプログラムといえるものです。

言葉や考え方が概念や一般論となって、自分の本心をさしおいて
台頭してしまっている
状態です。

なので、自分の心と向き合おうとする時には「言葉や考え」には
まず脇に寄ってもらって(どうしようかと「考える」その前に)
不快・不安・不要・不明瞭といった「気持ち(感情やムード)」
にフォーカスしてあげてください。

それを表現(説明)できる言葉を見つけ、心が納得がいくことで
スッキリ消化できるかと思います。

お母さんが幼い子の気持ちを汲み、代弁してあげることによって
その子がスッキリし、安心するように。
その上で心地良くあるために、心に素敵な言葉や明るい考え方を
持たせてあげてください。
感謝や謝罪の言葉など、それが支配や従順の道具として使って(使わされて)きた人には
逆効果になることも。あくまで「心の在り方を基準」にしてくださいね。

心自らは赤ちゃんのまま言葉を持たないピュアな存在なのです。
うまく笑顔にするコツをつかんでみてはどうでしょうか?

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by dryangle | 2017-09-20 15:38 | ココロのカラクリ | Comments(0)
Absolute Innocence -絶対無罪-
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これまでの経験や情報から、心の不調(慢性的な陰鬱さ、怖れや
不安の発作、怒りの感情爆発など)、なにかにふれてわき上がる
罪悪感・劣等感・被害(被責)意識≒損失恐怖?などといった
感情的な苦痛を引き起こす意識から、とっさに逃げようとする
反射的な防御反応が常態化しているということではないか?と
考えるようになりました。

その中でも、とくに罪悪感について。

古今東西、明らかな罪を犯すまでもない人を苦しめてきたものは
他の人の不幸や不運、不機嫌を目の当たりにして、自分の責任や
後めたさを感じさせられる無実の罪悪感です。

その根源は親に認められたいという成長過程に当たり前の欲求が
叶えられない、つまり親の期待や要求に応えられない際に覚えた
依存心が脅かされる苦悩(「見捨てられ不安」という言葉も)。
さらにはこれに親の不機嫌や衝動的な暴力、執拗なハラスメント
といった(身体や精神への)攻撃性のある罰が加わることにより
その贖罪としての感情=罪悪感が強化されて植えつけられます

賞罰は他者を容易にコントロールできるので、ルール・決まりや
礼節の行為の部分だけを守らせるためのしつけや教育に使われる
こともよくあること(癇癪・発散や支配のための手段としても)。
そのために挨拶や高齢者への親切さえも、純粋な思いやりによる
気遣いではなく贖罪プログラムによって(誰かの不機嫌を怖れる)
罪悪感、実際の感覚では漠然とした後ろめたさから、行うように
なってしまうのです。
余談ですが(褒賞による)獲得プログラムによっては、功名を得る快感を動機に
行うようになりがちです。


そのあるなしを比べてみると、たとえばジャンクフード(漫画、
ゲームなど)をたんに家で食べて(常用して)こなかった人は
成長し自ら行動できるようになった後は、機会や興味があれば
もちろん食べてみることもするでしょうが、基本的には望んで
健康的な食習慣を続けていくようです。

一方、親の不機嫌や叱咤などによりそれを一切禁じられてきた
人は、望んでも口にする(それを行う)ことに、抵抗、拒否感、
怖れ=罪悪感が付きまといます。
いわば不快な感情によってそれらを寄せつけないようになって
いるのです(多くはそこに後づけの正当な理由をこじつけて)。
またそれを覚えたら、かえって強く求めるようになってしまう傾向もあります。

もともとは親の否定的な反応で出来上がった観念、いわば結界。

一般的にごく常識的なものから、他者には想像もつかないもの
までその善悪正邪はじつは多種多様です。

親と心の距離を置き適当にあしらう。他人の不機嫌を気にしない。
浪費する。グダグダ怠惰に過ごす。バカ喰いする。
バカ喜び、お祭り騒ぎをする。爆食いする。
エッチなことを考える。自分の好きなことをする。
周囲の意見に耳を貸さない。信仰や信念、戒律を持たない。
年長者にタメ口で話す。
他人に助けてもらう、迷惑をかける。借金をする。
働かない。自分だけが幸せになる。有閑マダムになる(笑)

そこに罪悪感を感じて、それを自分に許せない人がいる。

想像してみてください。
そこに罪悪感を感じない人がいることを。

許せますか?後ろめたくはないですか?
モヤモヤ、ザワザワ、イラっとしませんか?
私はいまだに自分に楽しみや遊びを許し難く、家族がレジャーの提案を
すると、なぜか反射的にイラッ!とします^^;


これまでの人生で、ずっと当たり前に馴染んできた感覚なので
そのモヤモヤや苦しみが限界に達するまでは、わざわざ疑問に
思わぬまま自分に不快感を与え続けます。

けれど、その負荷に耐えきれず下手をするといつか強制終了
なりかねません。精神や人間関係の崩壊につながるのです。
もしくは次の誰かに同じようなプログラムを植えつけ、自分の
要求や期待に応え奉仕してもらう側に転身することになるか…
なぜ自分の苦しみを相手に背負わせるのか?ふと昔の嫁姑問題がアタマをよぎりました。

そのような負の連鎖を断ち切るために、そこから自分と大切な
誰かを解き放つために、これまでの自分の感覚や常識、世界観
にはない、当たり前でない、信じられない(それはきっと自分
にとって嬉しい、ラクな、楽しい、したい)が当たり前の前提
や感覚を選ぶ勇気を持ってみませんか?

とはいえ。

そのためには、モヤモヤ、ザワザワ、イラっ、メンドクサイを
乗り越えていく意識と覚悟が必要です。

その最初のステップが誰かに植えつけられた贖罪プログラムに
気づくこと
それがあるんだとに気づいている(外在化する)こと。

そうして自分の中で再設定・無効化すれば、贖罪のための負の
感情(苦しみ)からとっさに逃げる(感情の硬直、発作や爆発の)
必要がなくなる
のです。

サーカスの象*が鎖を解いて自由になる。
それは自分の絶対無罪を自らが選びとることに他なりません。

*サーカスの象は力の弱い小さな頃から鎖をつけられている。逃げようと暴れるほどに
鎖は足に食い込み、その痛みに耐えきれず逃げることをあきらめる。そのようにして
「逃げることは無理」だという観念が備わってしまったために、成長して鎖を壊す力を
得ても逃げようとはしない。学習性無気力の例え話として心理学ではよく使われる寓話。


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by dryangle | 2017-08-11 13:53 | ココロのカラクリ | Comments(0)
自分を苛(さいな)む視線からの解放
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前回の話題に続くシリーズっぽい話です。

人間関係への依存というものは、他者を介して自分の欲求
(例えばマズロー風に生理や安全、社会的、自己実現)
満たす・叶える
ということだと考えています。

ややこしいのですが、特定他者を独立尊重した対象として
ではなく
、自分の欲求を満たすために自己同化をした手段
・媒体とする
ことです。

される側は、抵抗や意識によって主体を得る機会や成果が
ない限り、もしくは「する側となって」相手を得ない限り
自分の実在感や効力感を失い(得られずに?)、操り人形
のような空虚感に苦しんだり、心身を病むことに…

その支配・被支配が作動するためには、相互的なある種の
心理プログラムが埋め込まれなければなりません。

それが内在化・内面化された自己監視の視線なのです。

当人の価値判断の選択を許さずに、一方的に賞罰によって
刷り込まれていくそれは、良くも悪くも心の深層において
その人の思考や感情・行動を縛るようになります。

褒章によって得れば、価値への欲として感じられるように
なりますし、(体)罰や喪失の痛みは強迫的なそれやその
代償への執着や拒絶を生むことになります。
欲を抑圧することでも強迫的になることはあり得るとは考えています。

自己同化の負のカラクリは、自分を見張るだけではなくて
自分を批判し、罰し、エスカレートすると、自分を虐める
など自己完結をさせるというところにあります。
(ここでは余談ですが)これに対して他者イジメは、自分のそれと異質か
もしくは抵抗・反抗する相手を支配するために行われます。
実現が不可能だと、相手の存在の抹消まで目的となるのです。


自分苛(いじ)めの多くは、表面的には忠孝や奉仕、努力
や勤勉、謙虚といった美徳の傘に隠されてしまうがために
自分ですら認識・告発しづらい状況に置かれているのです。

自分や他の人の、「この状態を見抜くことはじつはとても
簡単
」です。きっとみなさんにも自覚があるはず。

本人がイキイキと、意欲的に、けっして押しつけがましく
なく
いるのなら、それは主体的に選び取ったあり方です。
主体のあり方のデフォルトは喜びや生きる実感ですから。

そうでないとしたら…

(内外の)他者の視線に依存して自分のあり方を決めたり
それによって自分を規制したり、罰して苦しんでいます。
その上周囲の誰かを縛って、苦しませてしまうことも。

苦労(犠牲や奉仕、被害)をアピールして、相手に自分の
欲求を満たすように要求する
ことを受動攻撃といいます。
当然、相手の心を傷つけたり侵食したりします。

ストップ!自分イジメ!

気づいて(意識して)みるだけで、反応に少しづつ変化が
現れ、自分だけではなく関わる周囲の集合的な精神環境
も変化していく
はずです。

ところで…

最近は少々手垢にまみれたような「気づく」という言葉。

じつは排便や摂食と同様、「他人が代わることのできない」
ことです。
小さくても「気づき」の積み重ねこそが、自分という精神的な
存在実感
を得るための、大切な足掛かりとなり得るのでは
ないでしょうか。

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by dryangle | 2017-05-12 12:12 | ココロのカラクリ | Comments(0)
自分を見張る視線からの解放
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「アナタの長所をあげてみてください」

そんな質問をしてみます。

「やさしく、親切なところ」
「勤勉なところ」
「頑張り屋なところ」
「明るいところ」
「気使いができるところ」
「○×が得意なところ」

さらに質問です。

「それは、誰を満足させるためのものですか?」
「自分に対してもそうしてあげていますか?」

「ええっ!?自分に対して…?そうではないですね…」

いつのまにか、自分の存在に対するポジティブな実感が
他者視点という想定にすり替わっていることに気がつきます。

その大前提が変わらないまま、長所を見つけることができず
自らに怒り、失望し、意欲をなくしてしまう人もいます。

それが自分を大切にしていないということ。

親だけでなく社会環境や教育の中で、他者や全体の要求や
基準に叶うことの価値だけが偏重され過ぎた
結果、個々人の
QOL(Quality Of Llife 個人がその人らしく人生に幸福を見出だしているかの指標
がなおざりにされている証の現象のように思います。

他者(親や世間)の視線を内面化するだけで、自分自身の
視線を構築するというバランスに欠けてしまったという見方
もできます。

自分に対する厳しさも、主体的に選び取ったものでなければ
美徳ではなく、自己監視(検閲)の上それに背く(背かれる)
ことで罪悪感や劣等感、被害意識という自己処罰感情を生む
苦のプログラミングと言わざるを得ません。

ムカムカやイライラ、モヤモヤやションボリという感情の裏には
この苦のプログラミングが作動している場合も多いもの。

それが自分が影響力を持つパートナーや子ども、身近な人をも
相互に巻き込んでしまうのです。

その苦に疲れ果てた先に、誰かの*セルフネグレクト(自己放任)
につながっていきます。

自分の心の檻の監視の目を破り、主体的に自分や自分の人生の
喜びや幸福を見つけだし行動することが唯一の手段なのです。

監視(*自己処罰プログラム)のキツイ人には大変な作業ですが
連綿と続くそのプログラムを断つことを、主体的に臨む価値と
腑に落ちた時にこそ、それが軽くなることを実感できるでしょう。

*
ひきこもりや孤独死、汚部屋、ゴミ屋敷などの原因といわれている。
個人的には他者視点の自分(それを圧しつけた他者)と主体である自分との
戦いや葛藤に敗北した(もしくは圧しつけていた他者をいきなり喪失した)
無気力の状態だと考えます。
生活が本人の快適や満足という意欲や目的によるという実感が、成立して
こなかったのかも知れません。

*
労働やお金、人間関係など、特徴的な要素にあって、つい苦労を選んでしまう。
ある種の強迫観念に似た作用によるものだと想像します。
潜在意識(無意識の領域)に隠されているので、まずは気づく(意識領域にあげる)
ことが重要です。


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by dryangle | 2017-05-10 14:21 | ココロのカラクリ | Comments(0)
「不安依存症(不安中毒)」という発想
こちらでは、特定の療法や理論,思想にこだわらず、心理学・精神医学・カウンセリングなど
多分野から
心の癒しとメンテナンスに役立ちそうな話題を集めています。
悩みや苦しみの対象を操作しようとするのではなく、自分の感じ方・考え方・反応の仕方を見つめ
問題(とすること)から解放されることで、心の安定を得ることが基本のスタンスです。
初めていらした方へ…dryangleとブログ金魚迷惑について
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前々から一度整理して書き残しておきたいと思っていたことに
チャレンジしてみようかと思います。
どうかあくまでごく私的・個人的な体験としてお読みください^^
(感覚が符合する方には苦しみの根を外在化できる素材となるかも知れません)

過去に苦しんでいたことに、今となっては全般性不安障害(GAD)
や強迫神経症の一部、パニック障害などと診断されそうな症状が
ありました。

ちょっとしたミスやそれを想像するだけで、不相応の恐怖感
(よく例えていたのが、”高層ビルの屋上の手すりのない縁に
立っていて急に背中を押された瞬間に起こりそうな感覚”です)
がわき起こる。決して”ドキッとする”程度のものではない。

「(玄関や車の)鍵を閉め忘れたんじゃ?」はもちろんのこと
「締め切りを忘れたんじゃ?」「書類にミスがあるんじゃ?」
「大切なことを言い忘れたんじゃ?」「支払いの間違い?」
「この人不機嫌?ワタシのせい?」「誰かに見咎められる?」
…いちいちフリーズ。

森田療法でいう ”はからい(回避のための消極的行動)”に
とりつかれていたこともありました。

「こんな時間にまだ帰宅しない?」「連絡が来ない」などの
家族に関する状況に至っては、聞こえるほどまでに鼓動が
高鳴り、冷や汗タラタラ、過呼吸に、チック症状etc…
まさに発作といえるような状態に陥ります。
(それ自体で「自分が死ぬのではないか?」とは、恐れたことがないのが
不思議なのですが。そういうケースもあるのでしょうか?)


後者については、親への分離不安の名残なのではないか?と
認識できた頃から、少しはラクになってはきていたのですが
トラウマ反応にしては、トリガーが曖昧かつ広範囲で掴めず
予防や危機回避のためにしては、度を越している不安症状。
客観的に一応は恵まれている環境にあって、いちいちオドオド
ビクビク不安に暮らす毎日にウンザリしていました。

そんな私にとって、大きな転換となったのは「これ(不安や強迫)
も依存症だと考えてみたらどうか?
」と思いついた時でした。

とたんに、幼い頃の記憶がズルズルと芋づる式に引き出されて
その時の感情と共に恐ろしいほどストンと理解できたのです。

喜びや楽しみを禁じられてきた。

説明すると長くなりますが、期待するとひどくガッカリさせられ
喜ぶと親が不機嫌になって、嫌みや皮肉をネチネチ浴びせられて
喜んではイケナイ”というメッセージが強烈に焼きついています。

親との関係において、自分の心が味わうことのできたせめてもの
快感
さんざん不安にさせられてからの日常に戻る安堵感

ああ、もう殴られない。DVを受けたた方ならピンとくるであろう
”ようやく嵐が去った” …あのホッとする感じです。

もしかして?

そのクセとなった安堵感を求めて
自ら習慣的に不安感情に耽っている?


仮説としてだけでも、十分に腑に落ちたような気がしました。
(とくに就学前一人で留守番=置き去り?にされる時に、”喜んで自由にふるまっては
イケナイ、心配して大人しく待っていろ”という暗示にも似た思い込みがありました。
少し大きくなったら、遊ばせておくのはモッタイナイと山ほどの家事。)


その後、そのような自分の状態に陥った時に変化がありました。
これも一種の依存症状なのだと、突き放して(距離を置いて)
みることができるようになったのです。

妄想への不安に耽溺しているだけ…ただそれだけのこと。

不安の苦しみや痛みが増す前にそう気づくことで、だんだんと
ラクになり、「あれ?ダイジョウブだ!」ということも増え…

今でもウッカリすると巻き込まれそうになりますが、まったく
不可能のように感じていた、”不安断ち”が叶うことの実感を
得ることができたように思います。

ちなみにコールドターキー*は、喜びや楽しみに目が向くこと
への恐れ
のように思います。
次に待ち受ける課題はそれを乗り切ることでしょうか(泣)

「オラ、こんな親はイヤだ(った)~」

*禁断症状、離脱症状のスラング

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by dryangle | 2017-03-26 19:37 | ココロのカラクリ | Comments(2)
~し”づらさ”は、生き”辛さ”
こちらでは、特定の療法や理論,思想にこだわらず、心理学・精神医学・カウンセリングなど
多分野から
心の癒しとメンテナンスに役立ちそうな話題を集めています。
悩みや苦しみの対象を操作しようとするのではなく、自分の感じ方・考え方・反応の仕方を見つめ
問題(とすること)から解放されることで、心の安定を得ることが基本のスタンスです。
初めていらした方へ…dryangleとブログ金魚迷惑について
●過去記事のタイトル別一覧●

今回は日常の些細なことに目を向けてみましょう。
それは、何気ないふとした「~しづらさ」です。

言い換えると、気がねや遠慮、気後れ、ためらい
そして、とまどい、根拠のない後ろめたさ…
人によってさまざまに異なるでしょうが

例えば、かつての私なら

自分の意見を言いづらい
人前で泣きづらい
フェミニンなものを選びづらい
ある価格以上のものを買いづらい
大皿の料理に手を伸ばしづらい
誰か(家族)がいるとリラックスしづらい
誰かがいるとバスルームを使いづらい
他者に依頼や要求をしづらい
欲しいものを手に入れづらい
重要な人に話しかけづらい
承認がないと物事を先に進めづらい
自分だけで好きなことをしづらい
それらの不自由さを自分で認めづらい

ほんの小さなことから大問題まで、たくさんあるある!
皆さんはいかがでしょうか?
これらを誰か(や自分)のための「やさしさや気づかい」
なのだと、綺麗ごとにすり替えることも
常識や理屈で正当化することもできますが
自分の気持ちは、決してそうではないことを
苦しいような窮屈さを知っている。

それは自分の心の中にある、恐れる誰かの目に見咎められ
射すくめられた時の反応です。

叩かれ慣れた子が、傍らの人が髪をかき上げようと手を
持ち上げるだけでビクッとするという類の条件反射

次の展開で、身体や心の痛みを受けるのではないかという
予期不安ともいえます。

叩かれる、怒鳴られる、咎められる、嘲られる、笑われる
叱られる、嫌みを言われる、不愉快になられる、卑下される

通常、ここまではハッキリと意識にのぼりませんし
実際には大方あり得ない、ナンセンスな場合も多いです。

大元のエピソードの記憶自体は、忘れ去れられ(埋め込まれ)
てしまっているので、のちに状況に合理的な感情として自ら
整理をすることができないまま
にいるのです。
これが「しつけ(内在化)」の手段として使われてきました。

察しの良い方はすでに気づいていらっしゃると思いますが

この~し”づらさ”の多さ・強さ
そのまま生き辛さの度合い」
なのです。

もしそれが自分にとって不都合な反応であるのだとしたら

その都度気づいて、(結果としてどうふるまうかは別にして
意識して自分で選択することができれば、緩めることができます。

ひとづつ丁寧に結び目をほどくように
気づいて、緩めて、ほどいて
ほんの少しづづでも、気楽に
生きやすくなっていってみてはどうでしょうか?

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by dryangle | 2017-02-24 14:39 | ココロのカラクリ | Comments(0)

Illustration by ふわふわ。り